3階の重鎮達も思わず同情するほど、到達困難な場所に囚われているケイト。
背の高い茨に囲われた檻は、さながら茨でできた城塞です。
不思議とその中心に佇む ケイトの姿は映えていて、美しささえ感じます。
これは彼女のドレスの色が深紅の薔薇を想起させるからでしょうか。
それとも、彼女の気品ある性格が棘を連想させるからでしょうか。
いずれにせよ、絵になる光景です。
以前にも少し触れましたが、バラと美少女という物語は、古いものですとギリシャ神話のローダンテの物語がまず挙げられます。
この話は、3人の男の求婚に辟易した美少女ローダンテが、神殿内であれば大丈夫だろうと身を隠すものの、追いかけてきた男たちは何を思ったのか「ローダンテ、イズ、ゴッデス!!」と喚き散らし、偶然それを見たアポロンが「こいつら調子に乗りやがって!」と怒った結果、ローダンテは薔薇に、男たちは毛虫と蜜蜂と蝶に変えられた、という伝説です。(意訳)
ローダンテからすれば事故に巻き込まれたも同然ですが、救いは薔薇という美しい花に変えられたことでしょうか。
あ、でも薔薇になっても結局は元三人の男たちにまとわりつかれているので、やっぱりかわいそうですね。ギリシャ神話って、救いがない話も結構あったりするので、これもその一つと言えるでしょう。
さて、美少女こそは出てこないものの、我が国にも薔薇の伝説が古くから残る場所があります。
関東地方に位置する首都圏の穀倉地帯・茨城県です。
今回はシャドーハウスとはあまり関係がありませんが、茨城県の歴史とケイト&エミリコを絡めて書いていきたいと思います。
(※結構こじつけですので、興味ない方は飛ばすことをお奨めします。)
では続きからどうぞ。
背の高い茨に囲われた檻は、さながら茨でできた城塞です。
不思議とその中心に佇む ケイトの姿は映えていて、美しささえ感じます。
これは彼女のドレスの色が深紅の薔薇を想起させるからでしょうか。
それとも、彼女の気品ある性格が棘を連想させるからでしょうか。
いずれにせよ、絵になる光景です。
以前にも少し触れましたが、バラと美少女という物語は、古いものですとギリシャ神話のローダンテの物語がまず挙げられます。
この話は、3人の男の求婚に辟易した美少女ローダンテが、神殿内であれば大丈夫だろうと身を隠すものの、追いかけてきた男たちは何を思ったのか「ローダンテ、イズ、ゴッデス!!」と喚き散らし、偶然それを見たアポロンが「こいつら調子に乗りやがって!」と怒った結果、ローダンテは薔薇に、男たちは毛虫と蜜蜂と蝶に変えられた、という伝説です。(意訳)
ローダンテからすれば事故に巻き込まれたも同然ですが、救いは薔薇という美しい花に変えられたことでしょうか。
あ、でも薔薇になっても結局は元三人の男たちにまとわりつかれているので、やっぱりかわいそうですね。ギリシャ神話って、救いがない話も結構あったりするので、これもその一つと言えるでしょう。
さて、美少女こそは出てこないものの、我が国にも薔薇の伝説が古くから残る場所があります。
関東地方に位置する首都圏の穀倉地帯・茨城県です。
今回はシャドーハウスとはあまり関係がありませんが、茨城県の歴史とケイト&エミリコを絡めて書いていきたいと思います。
(※結構こじつけですので、興味ない方は飛ばすことをお奨めします。)
では続きからどうぞ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
茨城県といいますと、よく「○○年連続魅力度ランキングワースト1位」とか、「納豆と水戸黄門しかない」とか、「ヤンキーばっかり」などというイメージを持たれがちです。
それどころか、埼玉県に対する強烈なイジリが話題になった「翔んで埼玉」の原作では、実のところ茨城県が一番悲惨な描かれ方をされています。
いずれにせよ東京一極集中のメディアや政界が作り出した偏見でしかないわけですが、現在もなおそのレッテルを拭うにはまだまだ時間が足りないようです。
ただ、確かに一見地味ではありますが、よく見てみるとそうではないことが分かります。
国営ひたち海浜公園はネモフィラの名所として世界中から観光客が訪れますし、近くの大洗も某アニメの聖地として盛り上がっています。
古くからの聖地でも鹿島神宮や笠間稲荷は著名ですし、袋田の滝や筑波山といった景勝地も数多くあります。
筑波研究学園都市は世界の科学技術をリードする一大文教都市ですし、日立市は日本最大の企業・日立製作所を産み出した企業城下町です。
県南部を流れる利根川と生産される農作物は、首都圏の命綱でもあります。
まさに、首都東京だけではなく、我が国を支える重要な存在です。
とはいえ、やはり地味な印象は否めませんね。
中途半端に東京に近い立地が、悪い方向へ作用しているようです。
さて、ここまで長々と語ってしまいましたが、別に私は茨城県の観光アピールをしたいわけではありません。(判官びいきはあります)
では本題は何かというと、かの県の歴史を見てみると、かなり特異だということです。
一言で言うと、『中央(あるいは強者)に対する抵抗の歴史』です。
これは県名が色濃く反映された、当地の運命ともいえる歴史でした。
茨城県の県名の発祥は、読んで字の如く『茨の城』です。
なぜこんな地名が付いたのかというと、大和政権が常陸国(現在の茨城県域)を平定する際に、茨で城を築いたからだと言われています。
今から2000年以上も昔の話です。
一説には先住民の居住する洞窟に茨の罠を仕掛けたという伝承もありますが、とにかく通常の戦術では歯が立たなかったことに変わりありません。
それほど常陸に住まう民の抵抗は頑強だったのです。
この時築かれたの茨の砦が、やがて地名として残りました。
『茨城』の誕生です。
当時から既に、『中央に対する抵抗』が始まっていたのがお分り頂けるかと思います。
まさしくこれは、その後の茨城の歩みを象徴する出来事でした。
平安時代、その歴史を決定づける事件が起きます。
古代史最大の乱、平将門の乱です。
教科書では『平家一族内部での私闘』と良く紹介されますが、それだけではなく、これは当時の東日本の下層階級の声を代弁した蜂起でもありました。
確かに将門本人の私的理由もありましたが、京の都で暮らす貴族による東国からの搾取は苛烈でした。
将門は皇室と血縁関係にありましたが、そうした民衆の窮状を間近で見てきたからこそ、京より遠く離れた坂東の地で蜂起したのです。
残念ながら将門は、蜂起から3か月後に京の軍に討たれます。
ところが、この乱によって武士の発言権が大きくなったことで、本来自分達の権益を守ろうとした貴族の権威は失墜しました。武家政権の成立の遠因となったのです。
その後の茨城県における中央体制に対する抵抗は、例を挙げればきりがありません。
近代だけでも、桜田門外の変、坂下門外の変、第一次東禅寺事件、天狗党の乱、加波山事件、血盟団事件、五・一五事件……
武装蜂起に至らずも、鎌倉時代に京都から追放された親鸞が忍従の地に選んだのは現在の笠間市ですし、南北朝の乱で追い詰められた南朝方の北畠親房が神皇正統記を執筆したのは現在のつくば市です。
このように、盲目的に強者に追従しないという精神的風土は、独特の文化を形成してきました。
特に圧巻だったのが、第二次大戦時です。
強大な力を有する米国に対し、我が国は4年間の戦いを経て敗北します。
しかしそれは、現在喧伝されているような圧倒的敗北ではありませんでした。
むしろその戦いの中で、先人の方々は多くの輝かしい功績を上げました。
土浦市在住だった藤田信雄元海軍中尉は、パイロットとして史上唯一の米本土爆撃を敢行しました。
歴戦の精鋭部隊として名を馳せた水戸歩兵第二連隊は、南の島・ペリリューにて圧倒的な兵力を誇る米軍に対し、約3か月間前線を死守しました。
結果、米軍司令官に「この島の占領は、犠牲に見合う価値がなかった」と言わしめる、事実上の戦略的勝利を勝ち取りました。
強大な敵に立ち向かうという県民性は、対外戦争においてさえも遺憾なく発揮されていたのです。
戦後は戦乱こそはなかったものの、スポーツの分野で同じような傾向を辿ったように見受けられます。
昭和59年の夏の甲子園は、高校野球史上最強と言われるK・Kコンビを擁するPL学園を、取手第二高校が決勝で破り、深紅の優勝旗を初めて利根川以北に持ち帰りました。
Jリーグが発足した際、ほぼ100%参加不可能とされていた辺境のプロサッカーチーム・鹿島アントラーズは国内サッカーの名門へと成長し、平成28年のFIFAクラブワールドカップでは絶対王者レアルマドリードをあと一歩まで追い詰めました。
同時期に活躍した元横綱・稀勢の里は、現在もなお大相撲を席巻するモンゴル勢に対し、唯一対抗した力士でした。彼が育ったのは、牛久市です。
かなり長くなりましたが、強大な相手に対し果敢に立ち向かうという茨城県の地域性は、連綿と受け継がれてきたわけです。
さて、ここでシャドーハウスに話を戻しましょう。
記事冒頭でも書きましたが、ケイトが囚われている檻は、まるで茨でできた城です。
この難攻不落に見える仕掛けを内外から克服しようとするケイトとエミリコ。
彼女達の姿を見るにつけ、私はどうしても体制に抵抗してきた茨城の姿と重ねてしまいそうになります。
思えば、ケイトもどちらかといえば、シャドー家の風習に対して疑問を持っているように見えます。
そのケイトに育てられたエミリコも、通常の生き人形の常識に縛られない行動をこれまでとってきました。
体制に与することを良しとしない彼女達は、既にこのような運命を辿ることは必然だったのかも知れません。
既存の体制に立ち向かうには、覚悟が要ります。
失敗した時のリスクは取り返しがつかないからです。
事実、茨城の歴史を鑑みた場合、各出来事のその後の成り行きは暗澹たるものがほとんどです。茨城が地味だと言われるのは、もしかしたらそういった側面があるからなのかも知れません。
では、ケイトとエミリコはそれと同じ道を歩んでしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
確かに、彼女達が挑む試練は過酷です。まるで解決策も思い付きません。
ただ、それが故に、その困難を乗り越えた時の経験は何事にも勝るのではないでしょうか。
「高い壁を乗り越えた時、その壁はあなたを守る砦となる」
これはインド独立運動の指導者・マハトマガンジーの言葉です。
彼もまた、英国に対して毅然と抵抗した人物でした。
エミリコ達が、どうやってこの理不尽な運命を乗り越えていくのか。
もはや私には何も思い付きません。
しかしその試練を乗り越えた彼女達の姿は、自信と誇り、そして何者にも侵されない高い精神性の砦を纏っているに違いありません。
権力争いに明け暮れる奇妙な館。
その不毛な歴史に燦然と打ち込まれる、小さくも巨大な楔(くさび)が、今生まれようとしています。
茨城県といいますと、よく「○○年連続魅力度ランキングワースト1位」とか、「納豆と水戸黄門しかない」とか、「ヤンキーばっかり」などというイメージを持たれがちです。
それどころか、埼玉県に対する強烈なイジリが話題になった「翔んで埼玉」の原作では、実のところ茨城県が一番悲惨な描かれ方をされています。
いずれにせよ東京一極集中のメディアや政界が作り出した偏見でしかないわけですが、現在もなおそのレッテルを拭うにはまだまだ時間が足りないようです。
ただ、確かに一見地味ではありますが、よく見てみるとそうではないことが分かります。
国営ひたち海浜公園はネモフィラの名所として世界中から観光客が訪れますし、近くの大洗も某アニメの聖地として盛り上がっています。
古くからの聖地でも鹿島神宮や笠間稲荷は著名ですし、袋田の滝や筑波山といった景勝地も数多くあります。
筑波研究学園都市は世界の科学技術をリードする一大文教都市ですし、日立市は日本最大の企業・日立製作所を産み出した企業城下町です。
県南部を流れる利根川と生産される農作物は、首都圏の命綱でもあります。
まさに、首都東京だけではなく、我が国を支える重要な存在です。
とはいえ、やはり地味な印象は否めませんね。
中途半端に東京に近い立地が、悪い方向へ作用しているようです。
さて、ここまで長々と語ってしまいましたが、別に私は茨城県の観光アピールをしたいわけではありません。(判官びいきはあります)
では本題は何かというと、かの県の歴史を見てみると、かなり特異だということです。
一言で言うと、『中央(あるいは強者)に対する抵抗の歴史』です。
これは県名が色濃く反映された、当地の運命ともいえる歴史でした。
茨城県の県名の発祥は、読んで字の如く『茨の城』です。
なぜこんな地名が付いたのかというと、大和政権が常陸国(現在の茨城県域)を平定する際に、茨で城を築いたからだと言われています。
今から2000年以上も昔の話です。
一説には先住民の居住する洞窟に茨の罠を仕掛けたという伝承もありますが、とにかく通常の戦術では歯が立たなかったことに変わりありません。
それほど常陸に住まう民の抵抗は頑強だったのです。
この時築かれたの茨の砦が、やがて地名として残りました。
『茨城』の誕生です。
当時から既に、『中央に対する抵抗』が始まっていたのがお分り頂けるかと思います。
まさしくこれは、その後の茨城の歩みを象徴する出来事でした。
平安時代、その歴史を決定づける事件が起きます。
古代史最大の乱、平将門の乱です。
教科書では『平家一族内部での私闘』と良く紹介されますが、それだけではなく、これは当時の東日本の下層階級の声を代弁した蜂起でもありました。
確かに将門本人の私的理由もありましたが、京の都で暮らす貴族による東国からの搾取は苛烈でした。
将門は皇室と血縁関係にありましたが、そうした民衆の窮状を間近で見てきたからこそ、京より遠く離れた坂東の地で蜂起したのです。
残念ながら将門は、蜂起から3か月後に京の軍に討たれます。
ところが、この乱によって武士の発言権が大きくなったことで、本来自分達の権益を守ろうとした貴族の権威は失墜しました。武家政権の成立の遠因となったのです。
その後の茨城県における中央体制に対する抵抗は、例を挙げればきりがありません。
近代だけでも、桜田門外の変、坂下門外の変、第一次東禅寺事件、天狗党の乱、加波山事件、血盟団事件、五・一五事件……
武装蜂起に至らずも、鎌倉時代に京都から追放された親鸞が忍従の地に選んだのは現在の笠間市ですし、南北朝の乱で追い詰められた南朝方の北畠親房が神皇正統記を執筆したのは現在のつくば市です。
このように、盲目的に強者に追従しないという精神的風土は、独特の文化を形成してきました。
特に圧巻だったのが、第二次大戦時です。
強大な力を有する米国に対し、我が国は4年間の戦いを経て敗北します。
しかしそれは、現在喧伝されているような圧倒的敗北ではありませんでした。
むしろその戦いの中で、先人の方々は多くの輝かしい功績を上げました。
土浦市在住だった藤田信雄元海軍中尉は、パイロットとして史上唯一の米本土爆撃を敢行しました。
歴戦の精鋭部隊として名を馳せた水戸歩兵第二連隊は、南の島・ペリリューにて圧倒的な兵力を誇る米軍に対し、約3か月間前線を死守しました。
結果、米軍司令官に「この島の占領は、犠牲に見合う価値がなかった」と言わしめる、事実上の戦略的勝利を勝ち取りました。
強大な敵に立ち向かうという県民性は、対外戦争においてさえも遺憾なく発揮されていたのです。
戦後は戦乱こそはなかったものの、スポーツの分野で同じような傾向を辿ったように見受けられます。
昭和59年の夏の甲子園は、高校野球史上最強と言われるK・Kコンビを擁するPL学園を、取手第二高校が決勝で破り、深紅の優勝旗を初めて利根川以北に持ち帰りました。
Jリーグが発足した際、ほぼ100%参加不可能とされていた辺境のプロサッカーチーム・鹿島アントラーズは国内サッカーの名門へと成長し、平成28年のFIFAクラブワールドカップでは絶対王者レアルマドリードをあと一歩まで追い詰めました。
同時期に活躍した元横綱・稀勢の里は、現在もなお大相撲を席巻するモンゴル勢に対し、唯一対抗した力士でした。彼が育ったのは、牛久市です。
かなり長くなりましたが、強大な相手に対し果敢に立ち向かうという茨城県の地域性は、連綿と受け継がれてきたわけです。
さて、ここでシャドーハウスに話を戻しましょう。
記事冒頭でも書きましたが、ケイトが囚われている檻は、まるで茨でできた城です。
この難攻不落に見える仕掛けを内外から克服しようとするケイトとエミリコ。
彼女達の姿を見るにつけ、私はどうしても体制に抵抗してきた茨城の姿と重ねてしまいそうになります。
思えば、ケイトもどちらかといえば、シャドー家の風習に対して疑問を持っているように見えます。
そのケイトに育てられたエミリコも、通常の生き人形の常識に縛られない行動をこれまでとってきました。
体制に与することを良しとしない彼女達は、既にこのような運命を辿ることは必然だったのかも知れません。
既存の体制に立ち向かうには、覚悟が要ります。
失敗した時のリスクは取り返しがつかないからです。
事実、茨城の歴史を鑑みた場合、各出来事のその後の成り行きは暗澹たるものがほとんどです。茨城が地味だと言われるのは、もしかしたらそういった側面があるからなのかも知れません。
では、ケイトとエミリコはそれと同じ道を歩んでしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
確かに、彼女達が挑む試練は過酷です。まるで解決策も思い付きません。
ただ、それが故に、その困難を乗り越えた時の経験は何事にも勝るのではないでしょうか。
「高い壁を乗り越えた時、その壁はあなたを守る砦となる」
これはインド独立運動の指導者・マハトマガンジーの言葉です。
彼もまた、英国に対して毅然と抵抗した人物でした。
エミリコ達が、どうやってこの理不尽な運命を乗り越えていくのか。
もはや私には何も思い付きません。
しかしその試練を乗り越えた彼女達の姿は、自信と誇り、そして何者にも侵されない高い精神性の砦を纏っているに違いありません。
権力争いに明け暮れる奇妙な館。
その不毛な歴史に燦然と打ち込まれる、小さくも巨大な楔(くさび)が、今生まれようとしています。
