変身(フランツ・カフカ)


画像の文庫本は「変身」という小説です。
(この本ではもう一編「断食芸人」を収録)

20世紀を代表する小説家、フランツ・カフカの代表作です。

フランツ・カフカは19世紀末期から20世紀初頭まで生存していた人物でしたが、生前は薄い短篇集を出版したのみで、いわゆる「知る人ぞ知る実力作家」的ポジションでした。

ところが、カフカが遺言として焼き捨てるよう頼んだ原稿を、友人のマックス・ブロードが発表していったことで風向きが変わります。

カフカの実存主義的な作風が大きな反響を呼び、高い評価を得たのです。

やがてその影響は後世の小説家へと及び、現在では20世紀を代表する小説家として知られるようになりました。

翻訳者の池内紀氏は、ブロードの行動を「誠実な裏切り」と評しています。


さて、私が何故フランツ・カフカの「変身」を取り上げたのかと言いますと、この作品の主人公と関係があります。

この主人公は『ある朝目覚めると虫に変わってしまっていた』という理不尽な運命に遭うのですが、第108話を読んだ私は、思わずこの作品を思い出してしまいました。

いや、むしろ「変身」の主人公が大人の男性だったことを考えると、第108話の方が過酷なストーリーかも知れません。

それだけやるせない現実が、ある少女を襲ったのです。

今回のお話の主人公はケイト。

麗しの薔薇の過去が、今明かされます。



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扉には彼女の母・キャサリンの墓標が描かれています。
今回の物語は、ケイトの回想として語られました。


キャサリンは侍女が言っていた通り、ケイトを産み落とした後に力尽きたそうです。そのことはケイトも言い聞かされていたようで、冒頭「私が生まれてすぐ死んだらしい」と述べました。

しかし、そんな境遇でもケイトは健やかに育っていました。

ページをめくると、黒髪の少女は森を抜け、開けた場所へと駆けていきます。
元気よく黒髪をたなびかせ、村の子供達へ手を振るこの少女こそが、かつてのケイトの姿でした。

ケイトは集落へと行くと、小川へと降りていきます。
皆と水遊びでしょうか。子供達のはしゃぐ声が聞こえてくるかのようです。

そして遊び終えたケイトが岸辺へ上がると、その先には初老の女性が後ろに手を組んで見守っています。

この女性は前回の語り部の侍女です。

ケイトは靴も履くのも忘れて侍女へと駆け飛んでいきます。前話の侍女の回想の通り、彼女は本当にケイトを孫のように育てていたのです。

その姿は本物の祖母と孫のようで、ケイトは50年以上前の惨劇とは無縁の平和な暮らしをしていました。


ところが、その生活は暗転します。文字通り“黒い影”がケイトの身体を蝕み始めたからです。


最初は、左手と人差し指の先が黒くなっただけでした。

何も知らないケイトは侍女に患部を見せますが、それを見た侍女は汗を浮かべます。恐らく数十年前の悲劇を思い出したのでしょう。どこからか摘んできた薬草を調合し、黒くなった部分へと塗ります。


しかし、身体の異変はそれでとどまりませんでした。
次のコマでは左手全体を包帯で巻いたケイトを見て、友達が心配そうに見つめます。

その次のコマでは、右腕全体までもが黒く侵食されています。

またその次のコマでは、友達がケイトを見舞いに来たのか、家の前に二人の少女がいます。

ところが侍女は心配そうに口に手を当てる少女たちを前に、ケイトに会わせられないというようにジェスチャーします。その裏でケイトは、部屋の隅で布を頭から被ってしゃがみこんでいました。


そして何日経ったでしょうか。

ある日の朝、ケイトは目を覚ますとベッドが黒く汚れているのを見て飛び起きます。

よろめきながら床に手を付き、鏡の前まで辿り着いたケイトが見たのは、全身が真っ黒に染まった自身の姿でした。

ケイトはその姿に身を震わせ、もはや自分が以前のままでいられないことを察すると、鏡を割って苛立ちを露にします。

まだ幼いケイトにとって、豹変した自分自身の姿と、これまで一緒にいた友達に会うことができないという事実は、決して受け入れられるものではありませんでした。

ケイトが生まれてから、12年と少し経った頃の出来事でした。


ここまできたらもう隠し通すことはできません。
侍女はケイトに、62年前に起こった出来事を語り始めました。

申し訳なさそうに目を伏せて、全てを明かす侍女。

侍女は出生の真実を話さなかったことについて、ケイトは普通の姿で生を受けたのだから事件のことは全て忘れ、ケイトに話すべきではないと思ったと語りました。


それからというもの、ケイトは海の側の家にこもりっきりになりました。ただそれでも、侍女は村と家を行き来してケイトの世話をしたそうです。

また、外に出られないケイトのために本も用意し、退屈にならないようにしてくれました。

ケイトが読者好きなのは、この時の習慣が身についていたからかも知れません。本に書いてあることは、ケイトにとって退屈しのぎだけではなく、現実から逃げる癒しになっていたかと思います。


ただこの時、侍女はあることをケイトに言い聞かせていました。

「いつかミラー家の誰かが迎えに来るまで辛抱してね」

侍女にとってそれはケイトへの慰めだったかも知れません。また、同時に僅かな可能性を信じたいという想いだったことでしょう。


しかし、ミラーハウスがあんなことになって本当に生き残りはいるのか。
いたとしてキャサリンの、それも子供のことを気に掛ける人間はいるのか。
なによりも、こんな姿のケイトを迎えに来る人物がいるのか。

幼いとはいえ、聡明なケイトにとってその答えを出すのは簡単だったはずです。

ケイトは侍女の言葉を振り返り、自分を安心させようとして彼女は嘘をついた、と語りました。


それでも侍女は窓辺に立ち、いつもと同じように薬草を調合し、ケイトのために薬を作り続けました。

植物の挿絵が描いてある本を開いているということは、侍女は侍女なりにケイトの“病気”を直そうと必死だったのでしょう。或いは、先程の台詞のように、ケイトを安心せようと薬を作る姿勢を見せていただけかも知れません。

しかし、いずれにせよそれは『孫』のケイトのための行動でしたし、侍女にできる精一杯の努力でした。


この時、侍女は窓の外を見ながらポツリと零します。

「あの島に行けば何か分かるのかしら…」
「でも…戻るには歳を取り過ぎてしまった…」

視線の先には、62年前にキャサリンと共に逃げてきた島がありました。ミラーハウスのあった島です。

当時の侍女は、馬車を操り、小舟を漕ぎ、キャサリンを背負ってこの場所まで辿り着きました。

しかしその体力はもう彼女には残っていません。

そんな侍女の老いた背中を、ケイトは無言で見つめていました。


それを聞いたケイトは、外に出ると崖の上でしゃがみ、海の果てを見やります。視線の先には、同じくミラーハウスのあった島がありました。

この時のケイトが、一体どんな思いで島を見ていたのかと考えると切なさで胸が詰まります。

呪わしい自身の運命に対する悲しみなのか、ミラーハウスへ行くことができないもどかしさなのか、出生の秘密を隠していた侍女に対する怒りなのか。

はたまた、そのどれでもなく、第1話でケイトが言っていた「不安」なのか。

ケイトの頭からはとめどなく煤が上っていました。


暫く経ったでしょうか。

ミラーハウスを眺めるケイトに、侍女は声を掛けます。
どうやら薬が出来上がったようです。

侍女は部屋に入ってきたケイトをにこやかに迎え、テーブルへと向かいます。
手には薬を調合していた器を持っています。ということは、日課の薬を塗る時間でしょう。ケイトも侍女の元へと歩いていきました。


しかし、ケイトはそんな毎日にもう我慢ができませんでした。

ぐっと握りしめた手で侍女の前に立つと、侍女に問いかけます。


「私は人間なの?」


その問いに対し、侍女はケイトを「人間として」育てたと返します。
ところがその答えを聞いたケイトは激高しました。

「薬草なんて無駄よ!」

毎日毎日薬草を調合する侍女の姿は、もしかしたらケイトの目には欺瞞に満ちたごまかしにしか映らなかったのかも知れません。そんな嘘はもう通じないとばかりに、声を張り上げて侍女を問い詰めました。


身体から吹き上がる煤、黒くて表情の分からない姿、人として暮らすことのできない悲哀……


明らかに人間ではない自分を、なぜ考えなしに育てたのか。

ケイトにしてみれば、こんな苦しみを味わうくらいなら見殺しにして欲しかったということでしょう。

長い時間を経て、ケイトの中で疑問は悲しみへと変わり、悲しみは怒りへと変わり、そしてその怒りは不気味に姿を現しました。

「すすつらら」です。


部屋の天井から垂れ下がる、奇妙な物体。

これを目にした侍女は、62年前に恐れた事態がとうとう起こったと感じた筈です。実際に、当時の侍女はキャサリンのお腹が膨れているのを見て、モーフが生まれやしないかと怯えていました。

人間として育てた少女が人としての姿を失い、理解できない現象を目の前で起こしたのですからそう考えてもやむを得ません。すすつららを背に煤を出すケイトを見て、侍女は一瞬たじろぎました。


そういえば、第2話でエミリコはケイトに対し「ケイト様は人間ですか?」と尋ねていました。当時読んでいた時はエミリコの無邪気な問い掛けにしか見えませんでしたが、今思えばあの台詞は大きな意味を持っていたことが分かります。まさに、ケイトが侍女に尋ねた疑問と全く同じだからです。

あの時ケイトがぶっきらぼうに返事し、煤を出したのはそういうことだったのかと今更ながらに理解しました。


ただ、あの時とは異なることがあります。

それは、侍女がその答えを持っていたことです。


異様な様態の「孫」を前に、侍女は勇気を絞り、これまで打ち明けて来なかった想いを伝えました。


「キャサリン様が大好きだったわ」


平凡で貧しかった自分がキャサリンに仕えることができたのは誇りであり、どうにかして「役目」を果たしたかった。そう語ったのです。

侍女は、とにかくケイトを立派に育てることだけを考えてきたと言います。

しかしそれは侍女にとって大変困難なことでした。全てが手探りの日々。どうすれば正しかったのか、今も分からないと打ち明けます。

ですが、それでも主人に報いたい。
その使命こそが彼女をずっと支えていたのです。

そして、侍女がどうしても果たしたかった「役目」。
それはキャサリンの“遺言”でした。


「生まれた子を守って欲しい」


キャサリンは動かなくなる直前、こう侍女に言い残していました。キャサリンは最後の最後まで、生まれてくる子を案じていたのです。


貧しい出自の平凡な侍女にも、とても優しく接していたキャサリン。
彼女のその姿勢が侍女へと伝わり、侍女はケイトを見捨てずに育て続けました。

その結晶が、ケイトだったのです。


「私にとってもケイトは大切な存在なのよ…」


そうケイトを抱き締める侍女の言葉は、嘘でもごまかしでもありません。

それこそ、侍女はあれほどまでにミラーハウスには戻りたくないと語っていたのに、ケイトに異変が生じた今となっては、老いたが故に島に行けない無念を呟くほど心を痛めていました。

隠し事や嘘をついたこともあった侍女ですが、ケイトへの想いは正真正銘本物の愛情でした。

すすつららは、やがて静かに崩れていきました。


ケイトは真相を知り、生活は平穏を取り戻しました。

これまでと同じように侍女は村と家を往復し、ケイトに食事を作り、洗濯をし、平和な毎日が繰り返されます。晴れの日も雨の日も変わらない、そんな日々でした。


しかしその生活に、ケイトは微妙な違和感を感じます。
直感的に、今のままでいてはいけないと感じ取ったようです。

結果、ケイトは祖母(侍女)と一緒に居てはいけないと結論付けました。


決意を固めたケイトは、ある日突然姿を消します。

母の墓前に花を添え、ミラーハウスを見つめるケイト。
人として生きられないケイトにとって、ミラーハウスは唯一の希望となっていました。

ケイトは必要なものを鞄に詰め込み、そして装いを新たにします。
彼女は着ているのは、母・キャサリンが着ていたものと似た服でした。


自分という存在が何者なのか知りたい。


人間にとっての根源的な、そしてケイトにとっては生命線と言える疑問の答えを探しに、13歳となったケイトは一人で旅に出ました。

その始まりは、後に波乱が待っているのが嘘のように、穏やかな景色が広がっていました。