第117話のエドワード、第125話のスージーに続き、今話はバービーの単独カラー扉です。

以前でしたら単独カラー扉はエミリコの専売特許でしたが、最近になって他のキャラクターの登場が目立ってきていますね。アニメの影響によって作品自体の人気が出てきたからでしょうか。

母数が増えれば多様化が進むのは自然の摂理ですから、ひょっとしたら今後もあっと驚くようなキャラクターに焦点が当てられるかも知れません。温室班のマーガレットとマギーや、大成しないなんて言われていたウィリアム組とヘンリー組のメイン回も期待したいですね。


さて、ところでシャドーハウスにおいて初めてポートレイトが描かれたのはいつなのかご存知でしょうか?

実は、今回の扉絵の主であるバービーの初登場回(=第7話)、つまりバービーが着ていたのがポートレイトの初お披露目でした。なんと、第11話のミアではないのです!

このポートレイトは言わば生き人形にとって「制服」的な存在ですが、実際にお披露目に「合格」した生き人形のみが着ることを許された特別な服です。だからこそ、第44話でエミリコはポートレイトを着て感激していたのです。今思うと、なんだか憧れの制服を着て喜ぶ少女感がありますね。(ソウマトウ先生のシャドーハウス学園もそういえばポートレイトベースの制服だ…)(あ、でも男子は詰襟…)


扉絵のバービーも、今では考えられない眩しい笑顔をこちらに向けています。

着ている服はポートレイト。

そうとくれば、このイラストはお披露目直後の彼女の姿を現しているに違いありません。

アニメ第1話のCパート(次回予告?)で話題になっていたあのシーンとリンクした、輝かしい過去の面影。

かつての無垢な笑顔をめくってみると、その下にはあまりに辛い「消えない傷」が隠されていました。
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思い出話になるのですが、私がバーバラを初めて認識した時の印象は「あれ、意外と上品で公正じゃない?」でした。

第42話、お披露目のフィナーレ直前のことです。

あの時のバーバラは、ケイトの到着を待つことなく扉を閉めようとしたエドワードに、時間切れまでまだあると指摘していました。丁寧に「まだすす時計は上がりきっていませんが」と指をさしてエドワードに確認したのです。

そのバーバラの指摘を却下したエドワードはというと、気分を害されたのかバーバラに声を荒げます。結局、格好付けてガシャンと扉を閉めて悦に浸るわけですが、その行動は第43話のケイトとエミリコのミラクルゴールを演出する結果となりました。ついでにエドワードがネタキャラ化する始まりだったともいえるでしょう。実に密度の濃い2話でした。


さて、当時のバーバラの言動を見ると、エドワードが酷すぎるのも相まって非常にリーダーらしい見識を持っていると伺わせますね。従者のバービーの粗暴さを見ていただけあって、良い意味でギャップがありました。

しかし、暫くバーバラのことを見ていく内に一つの疑問が沸き上がりました。

それはバーバラの「顔」として、果たしてバービーが機能しているのかどうかです。

ケイトとエミリコほど確信があったわけではないのですが、なんだかバーバラの表情をバービーが表現しきれているとは思えなかったんですよね。

この点に関しては、私だけではなくSNSや匿名掲示板でも指摘する声がありました。結構多かったと記憶しています。多分本ブログをお読みの方であれば一度は感じたことがある違和感かも知れません。

その答え合わせが、とうとう今エピソードで描かれることになります。


結論から言うと、バービーはバーバラの「顔」ではありませんでした。
正確には「仮面だった」と表現した方が適切でしょうか。

ケイトとエミリコが全く異なる存在だったことや、パトリックとリッキーが互いに互いの心中を推し量り間違えていたように、バーバラとバービーの不一致さにも相応の理由があったのです。

そして、その理由には前回ラストで登場したトマスが絡んでいました。


本誌を読んだ方ならもうお分かりでしょう。

元々は引っ込み思案な主人と天真爛漫な従者が豹変した訳は、バーバラが星つきになったことにありました。こどもたちの棟をまとめるため、バーバラは敢えてバービーに「強い顔」になるように求めたのです。

つまり、星つき就任以来のバービーはそもそもバーバラの「顔」をしていなかったということです。

しかし、こどもたちの棟をまとめると言ってもクリストファーのようにはいきません。むしろトマスの「寛大な処置」をそのまま受け入れるとすれば、クリストファーとは違うやり方でこどもたちの棟を引っ張っていくしかありません。なにせ、トマスのバーバラに対する要求は「秩序を守らせること」なのですから。

結果、バーバラが取った方法は「強くなること」でした。

トマスからすればこれまで人の上に立ったことのない少女を操ることなど造作もなかったことでしょう。たちまちバーバラとバービーは強権的な態度で棟の秩序を保つことに成功します。

「強くならなければ」

バーバラにはクリストファーへの憧れを利用し、バービーには「消えない傷」への負い目を利用したトマス。

クリストファーによって規律の緩んだ棟の引き締めを達成するだけではなく、バーバラの噴出する大量の煤の確保に彼は成功します。こどもたちを生贄にして“2階”の権力を盤石にしたトマスは笑いが止まらなかったことでしょう。

こうして、読者が見てきたこどもたちの棟が出来上がったのです。

シャドーハウスという館の元凶が偉大なるおじい様だとすれば、現在のこどもたちの棟の元凶はトマスといって過言ではありません。バーバラとバービーはその犠牲だったのです。


その上、第136話のラストでトマスはバービーに傷が治る薬と偽って毒を渡したと激白していました。ここまでくるとトマス、とりわけシャドーハウスの「大人」にとってこどもたちはただの道具でしかありません。

やはり、第100話でケイトが言っていたように、シャドーハウスはこどもたちを養分にして存続を図る館なのです。


ここまでの情報を整理すると、バーバラとバービーの境遇に胸が痛くなってきました。

バーバラは、憧れのクリストファーに再会するため棟のリーダーとしての重圧を背負い、煤出しという苦行に耐え続けています。

バービーは主人の悲願を叶えようと、「強い顔」としてこどもたちから嫌われても棟の秩序を保ち、そして苦難の始まりとなった傷を治すためにせっせと薬を塗り続けています。

しかし、これらはいずれも彼女たちの本意ではありません。

それどころか、憧れのクリストファーは既に亡く、煤が大人たちが安穏とするための道具でしかなく、塗り続けている薬が毒とあればもはや救いはありません。

結果出来上がったのが、クリストファーがいた頃とは程遠いこどもたちの姿でした。本編のバービーの言葉を借りれば「あの苦しみは一体何のために?」という惨憺たる状況にいつしか彼女たちは追い詰められてしまっているのです。

シャドーハウスは読む進めていく内に各設定やキャラクターについての見方が変わっていくのが常ですが、第7話でバービーがエミリコを睨みつけた頃には想像もしなかった現実がまた増えました。あの時のバービーの胸中が今更ながらに分かった気がします。決して、身勝手な理由でバーバラもバービーも動いていなかったのです。


ただ、ここまでくるとバーバラよりもバービーの精神状態の方が心配になってきます。

第52話でバービーは夜を徹して主人のために手を握っていました。
第82話では主人に判断材料を報告するためエミリコを詰問していました。
第122話では事情を知らずに主人の名を持ち出したリッキーを制裁しました。

このどれもがバーバラのための行動です。例えこどもたちから嫌われようとも、悪役に徹しようとも、それは主人のための行いです。苦しむ主人を叱咤して煤を出させるのも、主人の館への貢献度を上げるためにやってきたことです。

歪な形ながらも、こうしてバービーは幾年も辛い日々と戦ってきたのです。


しかしながら、それは本当にバーバラのための行動だったのか。

違います。

その答えはバーバラが此度見せた笑顔に出ています。バーバラに本当に必要だったのは重圧からの解放と、苦痛を癒す時間だったのです。

前回のリッキーは「近すぎて…見えなくなっていた」と発言していました。同じく、バービーも余計なことを考えないように努めた結果、主人のことが見えなくなっていたのです。

結局のところ、主人の発作を和らげたのはパトリックの優しさだとバービーは気付きました。


バーバラが寝静まった後、部屋を出ていくバービー。

彼女は恐らく無力感に苛まれていたことと思います。第122話でバービーは「貴様に何がわかる!」とリッキーに激高していましたが、暫くぶりの主人の笑顔を見たバービーからすれば、何も分かっていなかったのは自分自身じゃないかと責めていたことでしょう。自身の存在意義さえも揺らいでいたことは想像に難しくありません。


自分の怪我のせいで主人はクリストファーに会えず、今現在も主人の力になれず、残ったのはこどもたちから恨みをかっている現実だけ……。


その事実を前にしたバービーが鏡の前の己に告げたのは、「がらくた」の四文字でした。

「お花畑」よりも「ぼんくら」よりも「でしゃばり」よりも「無能」よりも「面汚し」よりも「思い上がり」よりも、作り物の“生き人形”からすれば自分自身を「がらくた」呼ばわりすることほど悲しいものはありません。

何より、バービーはこれまで幾度もこどもたちを“処分”したと言われています。その是非は置いておくとして、この時のバービーは自分の存在を要らないものとみなしていたことと思います。

或いは、「笑う」という表情ができなくなったが故に「顔」としての責務を果たせなくなった己を嘆いたのでしょうか。


バービーの涙を見た時、第34話のラムを思い出しました。

当時のラムは、自分は「顔」ではないと、主人の感情が見えないと涙していました。その光景が、ふと今話のバービーと重なったのです。

今のバービーも、主人のことが見えていなかったと、自分自身は従者として、更に「顔」として役割を果たせていないと悲しみに暮れています。その悲しみは、誤解を承知で申し上げますが第34話のラムよりも深いことでしょう。

長く積み重なった心の傷は、額に残った傷跡よりも深く彼女を蝕んでいます。きっと、それは容易に癒されることはありますまい。最後に笑ったのが思い出せないほどの月日をなかったことにするのは至難の業です。


ただ、それでも私は最後に描かれた朝日のように、バービーにも救いの光が注がれることを願っています。

第12話で朝日が照らされた時、ケイトはエミリコに救われていました。

第74話ラストの朝日は、マリーローズとローズマリーの自由への逃避行を示していました。

第115話では、ケイトとエミリコの真の再会を祝福するが如く朝日が部屋を明るく染めていました。

それと同じように、きっと本エピソードの朝日にも意味がある筈だと思うのです。


もちろん、だからといってバービーのこれまでの行いが全て許されることはないでしょう。

第19話でのベル姉妹の発言が本当だったとすれば、何人もの生き人形を処分に追いやった過去が彼女にはあります。それだけではなく、棟のリーダーとして振るってきた暴力や強権的な行動の数々は他のこどもたちの心身を傷つけてきました。いかなる理由があろうと、これらの被害を被った側からすればバービーの事情は関係ありません。こういった複雑な情勢は、ケイトの計画にとって非常に難しい課題の一つといえます。

しかし、勝手な第三者の言い分と言われようとも、それでもバービーにはもう一度扉絵のような笑顔を見せて欲しいです。

「消えない傷」ができた忌まわしい日。

あの時から降り続く雨が止む、そんな日を待っています。