東京在住または在職の方は目にしたかも知れませんが、一昨日の東京新聞にシャドーハウスが紹介されていました。

残念ながら全国紙ではないため、知らなかったという声が多いかと思います。私もシャドーハウス絡みのツイッターを検索していて、偶然執筆者の投稿を見つけたくらいです。
ソウマトウ先生や集英社からの宣伝もないため、公式側との関係も特にはないのかも知れません。
(編集部のツイッターでは、執筆者の投稿がリツイートされています)

もし見逃したという方は、インターネット上でも公開されていますのでそちらを読んでみて下さい。
執筆者はコラムニストのブルボン小林氏という方で、他にも別名義で小説家として活動をしているそうです。

さてさて。
ところで皆様は、このコラムを読んでみてどう感じたでしょうか?
人それぞれ、色々な感想を抱いたかと思います。

私も読んでいて、様々なことを考えさせられました。

ただ、多くの意見はあれども不特定多数の人々の目に触れる媒体でシャドーハウスが紹介されたのは快挙ですし、その点については感謝したいと思います。
これをきっかけにシャドーハウスを知って、興味を持つ読者が一人でも多く増えて欲しいですね。

では私の感想については相変わらず長くなりますので、続きよりお願い致します。

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此度のコラムを読んで私が呻ったのは、終盤で述べられていた

‟今作を読んでいるとき、それらのなににも特に感情移入しない。なにしろ秘密も設定もかなり「拵(こしら)え」た感じがする”
‟不必要なほどノリノリでみせる怪演、それ自体を楽しむ感覚に近い。”

という部分でした。

私などは凝りに凝られた設定がシャドーハウスの魅力だと思っていますし、それをうまくストーリーと登場人物の動き、背景の描写に活かしていると感じていました。

ところが、そういった要素を作り物のように感じる人にとっては、物語の世界観自体がしつらえたものの様に思えてしまうようです。
感情移入できない、という感想は、その‟作り物の世界”に白けてしまっているのかも知れません。

確かに、こう感じてしまった以上、感情移入できないのは分かる気がします。
私も時々演劇舞台を鑑賞する機会があるのですが、未だに役者の演技がかった芝居や歌、古くから変わらない舞台装置が気になってしまって、ストーリーに集中できません。

ではその場合、何に注視して観劇しているのかというと、ずばり舞台の仕掛けや台本の構成、役者のテクニックなどを見て楽しんでるんですよね。

例えば、
「暗転している間に同じ大道具を利用して、全く違う場面を表現している!」
とか、
「ここで主人公の過去に切り込むのか!?」
とか、
「よくあんな足場の悪いところで、上手く歌えるなあ」
といった具合です。

上で抜粋した‟怪演を楽しむ”という部分は、そういった見方を指しているのだと思われます。

私の様にシャドーハウスに嵌ってしまった人間からすると、なんと冷めた感想なのかと思います。
ですが、ある意味ファン以外のこういった評価はなかなか目にすることがないので新鮮でした。


ただ、当該コラム全体を通して読んだ時、所々違和感があるのも事実です。

貴族であるシャドー家が影として黒く描写されていることを、
〝物語の起伏と無関係の面白さがある。”
と述べた部分は納得できます。
物語の設定の斬新さが評価されているわけです。
これについて異論はありません。

しかし、その後に続く文章については注意して読まなくてはいけないと思います。

なぜなら、結論に至るまでの記述が散文的で、
‟筋を読むのでなく、影を注視して楽しむこともできる不思議な魅力の一作だ。”
という最後の評価に何故繋がるのかが難解だからです。

ブルボン小林氏は、シャドーハウスを構成する要素を抜き出しながら、
‟そうではない” ‟それだけではない”
という言葉を多用して、ことごとく平凡で斬新さのない作品だと述べています。

ある意味ではそういう見方もできるでしょう。
ただ、それを言ってしまえば、世の多くの作品は平凡だということになります。
それらの要素を切り取って否定することでシャドーハウスという作品に見所がないような書き方は、なんだかなあという気分にさせられます。

むしろその平凡に思える要素の中に潜んだ設定・描写・伏線こそがシャドーハウスの魅力だと思います。
一言でいうなら、『日常のすぐ隣にある、不穏』といったところでしょうか。
ここでいう『不穏』とは、我々がこの世界で目にするものとは全然違う、非日常的な出来事です。
ソウマトウ先生の前作の『黒』は、まさにそういった世界でした。

しかもソウマトウ先生の卓越した部分は、それらをただの残酷描写や意外性といった安易な表現に甘えていないところです。
その技術は、今作のシャドーハウスで更に磨きがかかっています。

なので、そういった点を挙げずに、怪演を楽しむという結論に至ってしまったのは少し残念です。

ただ、ブルボン小林氏もストーリーの筋を読むことについては否定していないですし、コラムの題名から見る限りですと、シャドーハウスという作品自体はある程度評価しているように見えます。

なので、ますます全体を通して見た時に浮かんでくる「一体全体何が言いたいのだ?」という率直な感想に戸惑いを覚えますが、これについては本コラムの構成と氏の過去コラムを見れば少しは理解できるのではないかと思いました。

まずコラムの構成についてですが、何よりも目立つのが教育テレビで放映されているという『シルエットはかせ』についての説明です。
実にコラム全体の3分の1を占めています。
この番組を切り口にしてシャドーハウスの評論に移るわけですが、それにしても長すぎると思います。

そしてこのコラムは連載なのですが、前回のコラムを見てみると似たような構成になっていることが分かるかと思います。
序盤に関連のある題材を記述し、そこから本題に入るという手法です。

この手法、評論文を書くにあたってよく使われるテクニックです。
導入、いわば掴みの文章で読者に特定のイメージを想起させ、本題をより分かりやすく伝えようとしているわけです。

前回のコラムは、執筆者が映画ハリーポッターを見て感じたことと、漫画『約束のネバーランド』を読んで驚いたことをリンクさせており、作中では漫画表現として珍しい描写がなされていたことが解説されています。

これは『約束のネバーランド』で執筆者が気付いた点を伝えるために、ハリーポッターで抱いた感想が効果的に引用されています。
この序盤の文章がなければ、執筆者にとって何が新鮮だったのか分かりにくいコラムになったことでしょう。そういった意味で、『ハリーポッター』の説明は必要性が高かったと言えます。


翻って見て、シャドーハウスの場合はどうでしょうか。

正直、序盤の『シルエットはかせ』の描写は必要なかったと思います。
なにしろ、終わりの方で
‟「シルエットはかせ」が物の角度を変えて形が分かった瞬間を、この漫画でも求めているのか?”
と自問しているものの、さしてそれは重要ではないといった結論になっているからです。
おまけに、シャドーハウスと関連した記述はこの一文だけです。
何のための引用だったのか、必然性が見えてきません。

むしろ「シルエットはかせ」で費やした字数を別の形で表現した方が、よっぽどまとまった文章になったのではないでしょうか。


芥川賞受賞作家の先生に対し、釈迦に説法なのは承知で申し上げます。

あまり言いたくないのですが、もしかしたらこのコラムは、『シルエットはかせ』の引用ありきで書かれたコラムなのではないでしょうか?

つまり、『影』というたった一つの共通点から引用してみたものの、必然性のない引用だったことから、全体的に中途半端な印象が残ってしまったということです。


文章を書くという作業は、難しいものです。

ましてや、それを職業として幾つも書かなければならないというのであれば、その苦労は推して知るべきです。

ですが、文章の構成をある程度固めれば、見栄えのいい文体を整えるのは難しくありません。

おまけに本題に絡む出来事を冒頭に引用して評論文を書くのは、説得力を持たせて質を上げると同時に、文章量を増やすことの出来る得策です。

しかしその評論文の構成をまず先に作ってしまったのであれば、本題の結論がぶれてしまったとしても当然と言えます。
結論を分かりやすくするための引用ではなく、引用ありきで作った文章から結論を導き出したのですから、さもありなんです。

このコラムを読んでみて、いまいち執筆者の意見が見えにくいと感じるのは、こういった理由を孕んでいるからだと思います。

私も毎週のように各話のあらすじを書くにあたって、極力以前用いた表現や言葉は使わないよう注意していますが、表現の選択肢は当然減っていくわけですから至難の業です。
その中で書きやすい文章にしたいがあまりに、伝えたい結論を恣意的に変えてしまいたい誘惑にかられることもしばしばです。

しかしそれでは、このブログの存在意義はありません。

物を書き続けるということについての危険性を改めて感じた次第です。


さて、ついつい非難めいた事を綴ってしまいましたが、反面ブルボン小林氏のコラムにはファンには見えない指摘も含まれています。

更に、何よりも重要なのは、まだ世間的に知られていない『シャドーハウス』という作品を新聞という媒体の中で取り上げて頂いたという事実です。

シャドーハウスという作品が世に広まれば広まるほど、そこで受ける評価は千差万別・十人十色の意見が幾つも飛び交うことでしょう。

そんな未来の第一歩となる新聞デビューだったのではないか。
個人的にそう考えています。