記事の題名は浄土真宗の僧・金沢大栄の言葉です。
後に、倫理学者の竹内整一氏が著した学芸書のタイトルにも用いられています。

この言葉は更に「形は滅びても人は死なぬ」と続くのですが、検索してみると前半部分だけが引用されることがどうやら多いようです。
恐らく前半の「花びらは散る 花は散らない」だけでも意味が通じるからでしょう。


我々が花の散る姿を見る時、散るのは花びらであって花そのものではありません。

“例え花びらが散りその形が消え失せたとしても、そこに咲き誇っていた花が存在しなかったことにはならない。”

そういった意味をこの言葉は孕んでいます。
近年では浄土真宗だけではなく、仏教思想や無常観を端的に表すものとして目にすることが多くなりました。

それはいくつもの時代を経て、多くの人々が共感する死生観として受け入れられるようになったからかも知れません。


私がこの言葉を題名に選んだのは、第78話を読み終えた後に浮かんだのがこの言葉だったからです。

シャドーハウスにおいて、長い間咲き続けていた二つの花。
とうとうその花びらの散る時がやってきてしまいました。

今回の記事は、これまでの思い出を振り返りながら第78話の感想を書いていきたいと思います。



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マリーローズとローズマリーについて、このような記事を書くことになろうとは思っていませんでした。

しかしそれと同時に、二人が悲惨な運命を歩むことを覚悟していたのも事実です。


第78話で描かれた彼女達の最期。
第二次亡霊騒ぎから始まったマリーローズ達の苦難は、ようやく終わりを告げました。

シャーリーとラムの時と同じように、運命が覆らなかったのがとても残念です。ケイトとエミリコの力を以ってしても不幸の連鎖を止めることはできませんでした。


前回のお話に引き続き、今回の第78話も多くの方に衝撃を与えたようです。
SNSでは二人を嘆き悲しむ声が多く投稿されていました。

第43話のお披露目の終了時と違っているのは、今話の感想で多くを占めているのが“諦観”であることでしょうか。
事実、『二人が幸せなら……』といった文言がよく見受けられました。

それもこれも、彼女達が最期に見せた表情が笑顔だったからでしょう。
最終ページの柱にも「涙に濡れず、浮かべた微笑み」とありました。


これについては、マリーローズとローズマリーの描写が丁寧に描かれたことも大きいかと思います。

後悔を微塵とも感じさせない彼女達の姿は、その先の運命とは裏腹に気高く美しいものでした。
他者からは窺い知れない彼女達の胸中を想像することで、彼女たちの惜別と幸せを願う声が多く上がったのだと考えられます。

私が把握した限りでは、安易な非難や困惑といった感想は見受けられませんでした。


しかしだからといって、マリーローズとローズマリーの生涯がこれまで幸せだったかどうかについては賛否両論となるでしょう。
これに関しては私も答えを持ち合わせていません。

というよりは、誰にもこれは答えられない筈です。
以前も書きましたが、『幸せ』という言葉ほど曖昧なものはないからです。

この言葉によって諍いが起こるくらいなら、議論すべきですらないと私は考えています。


ただ。
ただ一つ、ここで一つ言いたいことがあります。


苦しみを抱えながら生きてきたマリーローズ達。
彼女達にとってクリストファー亡き後のシャドーハウスの生活は、非常に窮屈で不自由なものだった筈です。箱庭の中の暮らしは『生きている』のではなく『生かされている』といっても過言ではなかったことでしょう。


しかしだからと言って、二人のこれまでが無駄だったりとか意味のないものだったと私は思いません。


とかく、生命至上主義においては生きていることこそに価値があり、それを絶対視する傾向があります。また、自由こそが至高の価値観でありそれを共有することが人類には必須だと考える人もいます。

それも間違いではないでしょう。

ただ、そのいずれか、あるいは両方を手に入れられずに生きている者を否定する資格は、誰にもないと思います。

マリーローズとローズマリーのこれまでを振り返ると、まさしく彼女達は短くともその生涯において大きな花を咲かせていたからです。


ローズ班の班長として、エミリコと一緒にいたローズマリー。

おっとりぼんやりしている彼女はバーバラから「ぼんくら」と呼ばれ、それとなくミアからも辛辣な言葉を掛けられていましたが、第69話で彼女自身が言っていたようにローズ班は本当にいい班でした。

今思えば、最初の亡霊騒ぎが起こった時にローズマリーが行っていた“授業”は、クリストファー時代の名残だったのかも知れません。

その時ローズマリーは、エミリコにどんな期待を寄せていたのか。
そしてその前にもあったと思われるルウへの授業の際、ルウのことをどんな眼差しで見ていたのか。

今となっては知る由もありませんが、きっといつものようにローズマリーは優しい笑顔だった筈です。

他にも第54話でエミリコの勉強に付き合ってあげたり、第17話で心配顔のエミリコに声を掛けてあげるなど、エミリコにとってローズマリーは姉のような存在でした。

ついぞ伝えられずに終わってしまいましたが、エミリコは『ローズマリーはぼんくらなんかじゃない』と心の中で言っています。ローズマリーの自己評価と裏腹に、エミリコはローズマリーを頼っていたのです。


そして同じく、シャドー側のローズ班の班長としてケイトと一緒にいたマリーローズ。

サラとルイーズが意気投合して孤立しそうな中、肩を抱いてケイトに語り掛けた彼女は、初めて会った時に言った通り、ケイトの良き相談役でした。

恐らく描写された以外のシーンでも、ケイトはマリーローズと話をしていたと思います。

でなければ、ローブシャドーの正体を告げた時のケイトがあんなに俯いていた筈がありません。

エミリコがローズマリーを慕っていたように、ケイトにとってもマリーローズはほんの少し警戒を解くことのできる存在だったのではないでしょうか。

マリーローズとローズマリーがケイトとエミリコ、ひいてはジョンやケイトの同期に与えた影響は計り知れないと思います。


そして仮に。
もしも心のどこかでマリーローズとローズマリーが、ケイトとエミリコが他のこどもたちと一線を画す存在と気づき特別な想いを持って接していたとすれば、彼女達にとって大きな救いとなっていたと思います。

ケイトとエミリコと過ごす時間は、マリーローズ達にとっても和やかなものだったのではないでしょうか?私はそう思いたいです。


もちろん以上の事実を以て、マリーローズとローズマリーの生活が100%幸せだったというつもりはありません。
当然苦しく悲しい時間のほうが遥かに長かったことでしょう。

しかしそんな中、『もしかしたら』と思える存在に出会えたマリーローズとローズマリーのことを考えると、ケイトとエミリコは暗い館に差した一筋の光だったと、私には思えてなりません。


第78話のあらすじ紹介でも述べましたが、栄光の廊下を歩くマリーローズ達の行動は、ケイト達に対する「やさしさ」で一貫していました。

迷いのない彼女達の姿勢は、二人が何も後悔していないことの証だと私は強く信じています。だからこそエドワードの台詞に動じず、自分たちが信じた道を疑わず身を投げたのでしょう。
直後の二人の表情は、明鏡止水の極みです。


そして宙を舞った二人。
抱き合う姿は美しく、あくまで穏やかな表情をしています。
シャドーハウスにおいて、これほどまでに幸せそうな表情がかつてあったでしょうか。

たとえこれまで不幸だったとしても、たとえ箱庭での生活だったとしても、今際の二人は幸福で満たされていた。私はそう結論しています。


もちろん彼女達の行動を、妥協により生じた『幸せ』であり本当の幸福ではない、と断じることも可能でしょう。それも一つの意見です。

しかし代替案のなき意見に説得力はありませんし、だからこそマリーローズはせめて最期だけは運命に抗おうとしたのだと思います。

人は死に直面して自身を偽ることはできません。
その上で累が及ばないよう全てを背負い、片を付けた二人の行動はただただ立派だと思います。



たった一対だけで、シャドーハウスに抵抗しようと耐え忍んできたマリーローズとローズマリー。

自分達が成しえなかった館の改革をケイト達へと託し、誰にも手を出せない二人きりの世界へと旅立っていきました。

その生涯がたとえ困難続きだったとしても、彼女達の最期が幸せなものだったことは誰にも否定できません。

私はそう固く信じています。