個人的な話で申し訳ないですが、私は人の顔を覚えるのが苦手です。

一度会っただけではまず覚えられません。なので、以前会った人とかに街中で出くわしても、スルーすることしばしばです。後日、『あの時あの場所にいましたよね?』みたいなことを言われて初めて知ることは珍しくありません。

なので、ある人の所にどうしても訪ねに行かなければいけない、という時は絶対にその人ではない別の人(性別が違う人とか)に『~さんいらっしゃいますか?』と聞いたり、遠くから大きな声で『~さーん、例のもの持ってきましたー!』と叫ぶなどして、何とかやり過ごしてきました。

まあ、社会人になってからは大人数で過ごすこともなくなったので、最近そういったことで悩むこともなくなりましたけどね。むしろ学生の頃の方が大変だった記憶があります。地図や文章の記憶力よりも人の顔覚えたいと思っていたものですが、いざ大人になってみればなんてことはありませんでした。

それと一つ、得したと思うことがあります。

それは、初対面の時と以後のイメージが違う、と感じることがほぼない点です。

まあ当然ですよね。なぜなら相手の顔を覚えてないのですから。初対面時にどう感じたか、という印象はもちろん覚えていますが、それでもイメージの差に比較的惑わされることがないのは利点かなと思うようになりました。


ただ、それは普通の世界で普通の生活をしている人間だからこんな風に言えるのかも知れません。

例えば、通常考えられない事態に襲われ、存在意義を探すために故郷を捨て、辿り着いた先が異常な場所で、誰にも頼れないという状況下において、もしも安らぎを与えてくれる存在に出会ったとしたら、流石の私でも相手のことを忘れないと思います。

ケイトにとって、ミラーサイドで出会った少女はそんな存在でした。

その少女はケイトの姿を見て避けなかっただけではなく、笑顔で接し、大切な贈り物をしてくれました。シャドーハウスに潜入した後、館に囚われた少女と数奇な再会をしたケイトは、その少女と共に困難を乗り越えようと心寄せていました。


ところが、ケイトの純粋な好意は館の悪意に阻まれます。
少女はもう、ケイトの知っている少女ではなかったからです。

シャドーハウスの本当の恐ろしさを、ケイトと読者は思い知らされることとなりました。
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暗い部屋の中、エミリコの顔を見つめるケイト。
この部屋を出るには、エミリコに擬態したモーフになりきるしかありません。

ケイトは持ってきたナイフで髪型を変え、黒い布を脱ぎ、ナイフも黒い布も捨てました。床には、ケイトがエミリコと交換した服も転がっています。

しかしケイトは、この窮地を脱するため、旅を共にしてきた一切を打ち捨てました。残るは、何一つ纏うことない自分の身だけです。


ただ、ケイトにはどうしても捨てられないものがありました。

エミリコから貰った、あの人形です。

「貴女がくれたお守りだから」

ケイトにとってエミリコが作った人形は、エミリコとの出会いを象徴する宝物だったのでしょう。そっと優しく、エミリコの着ているスタンダードにそれを忍ばせました。


数刻すると、ソフィが姿を現しました。彼女は部屋の中を見て驚きます。

新しいペアが誕生しているだけではなく、既に「生き人形」にそっくりな形態をしていたからです。すぐさまソフィは“次の部屋”へと案内し、ケイトはようやく暗闇から抜け出すことができました。


ケイトとエミリコが案内された部屋は、教室のような部屋です。

しかし、室内にはベッドやランプも置いてあります。どうやら今度はこの部屋で一日を過ごすようです。眼鏡を掛けた、いかにも教師らしい大人のシャドーが指示を出し、いよいよ新生活が始まりました。

まずはお風呂です。

ケイトはお風呂と聞くなり、ようやく人間らしい生活ができるとホッとしました。少なくとも監獄のような暮らしではないことに一安心といったところでしょうか。それも、お風呂では自動で壁から水が出る装置が付いています。ケイトは凄い技術だと驚きました。

ところが、そんな光景を見てもエミリコは一向に感情を露にしません。虚ろな目で水を浴びているだけです。あれだけ感情豊かだった、何よりも、別れ際に素敵だと言った笑顔が見られないことに、ケイトは少しだけ気がかりに思いました。

お風呂から出た後はお着替えです。裸のままでは風邪をひいてしまうかも知れませんから、ケイトにとって渡りに船です。一瞬、モーフとしてここで着替えるのが正しいかどうか逡巡するものの、模倣するのがモーフの性質ならエミリコの真似をするのが正解だと、ケイトも服を着始めました。

その様子をじっと教師のシャドーは見つめますが、特に注意はありません。ケイトはまたもや賭けに勝ちました。これでとうとう普通の身なりです。

ついでに、教師のシャドーが散歩の案内をする隙に、エミリコの脱いだ服から人形を回収することに成功します。ケイトの人形に対する執念には、微笑ましさを感じますね。これでケイトも落ち着きを取り戻しました。


何日間同じ日々が続いたでしょうか。

勉強し、同じベッドで就寝する毎日の繰り返し。ケイトはそんな日常を過ごすうちに、あることに気が付きます。

これは人間らしい生活ではなく、人型になったモーフに貴族らしい生活を叩き込むための、教育プログラムだったのです。

そうとくれば、ケイトが元人間であることを誤魔化すのは簡単です。徐々に知識を得ていくように見せかければ良いだけだからです。

就寝時、ケイトは隣で寝ているエミリコに心の中で感謝を伝えると、必ず貴女も救ってあげるわと、ぎゅっと手を握りました。この時ケイトは、時が経てばエミリコの笑顔を取り戻すことができると信じていたに違いありません。呑気に、名前を聞いておけば良かったと眠りにつきました。


ただ、なぜエミリコがぼんやりしたままなのか。

それにケイトは気が付くことはできませんでした。そして、それこそが館の仕組んだ罠だということに気付いた時、既に事態は手遅れでした。

部屋の外ではソフィと教師のシャドーが会話しています。ソフィがケイトとエミリコの様子を尋ね、教師のシャドーが現況を伝えているようです。

「シャドーとして独り立ちできます」

それが教師のシャドーの評価でした。ケイトの生活はまたも一変します。


明くる日。

我々にとって見慣れた部屋にケイトは移動させられていました。ケイトが寝ているのは天蓋付きのベッドです。

しかしケイトにとってそれは初めて見る光景でした。目を覚ますと、すぐに環境が変化したことを察します。と、同時にポケットの中の人形を探りました。

ケイトには悪いですが、煤を出しながら人形を探す姿が微笑ましいですね。そこまでその人形が大事なのかと言いたくなります。

ですが、ケイトにすればその答えは決まっているでしょう。もちろんイエスです。服に隠していて良かったと、両手で人形を取り出しました。


ところが、広い部屋を見渡してもその人形を作った主がいません。
エミリコのことです。

それに部屋の外を探そうとしてもドアは開きません。またもや軟禁状態のようです。ケイトは部屋の中をうろつきました。

そうしているうちに、机の上に置かれた一冊の本がケイトの目に入りました。向かい合わせの黒塗りの人物が表紙に描かれている、分厚い本です。

この本は、第47話の扉絵にもなっていた「シャドーの教え」です。お披露目前のシャドーは部屋の外に出られないため、この本を読んでシャドーとしての生活の基礎を学ぶのです。あの時ケイトは、この本の内容について淡々と語っていました。


しかし、初めて本の記述を見たケイトは、その内容の悍ましさに驚愕します。

「シャドーハウスは人々に慕われる素晴らしい貴族」
「“生き人形”はあなたの道具」
「世話係であり『顔』です」
「“生き人形”を使いこなしましょう」


あまりに歪んだ価値観に、ケイトの手から本が落ちます。

一体どれだけの月日をかけてこんな世界ができたのか。

前話でもケイトはソフィの所業に震えていましたが、今回は更に大きく打ち震えました。怒りだけではなく、敵の強大さを思い知ったからです。

館の住人だけではなく、島中が騙されている状況では到底敵う相手ではありません。嘘で塗り固められた館で、たった一人で闘わねばならない現実を改めて突き付けられました。


ただ、逃げ出すわけにはいきません。自分自身の存在を知るためにここまで来たのです。今更引き下がれません。

それに何よりも、あの時笑顔をくれた少女が今も捕らえられたままなのです。昨晩と同じく、助けられるのは自分だけだと奮い立ちました。


ケイトはシャドーハウスに対抗するため、どう振る舞えばいいか思案します。

まず現状として、シャドーハウスの異常さに気付いているのはケイト一人だけです。ミラーハウスとは正反対の酷い場所、それがこの館なのです。

ただ、一人だけではすぐに潰されるのが関の山でしょう。そこでケイトは、シャドーのルールを完璧にこなした上でミラーハウスを取り戻すことに決めました。ケイトの家族が暮らしていた、幸せな場所をもう一度手にするためです。

偶然かどうか分かりませんが、シャドーハウスを跋扈する奇妙な動体・こびりつきが、意を決したケイトによって踏み潰されました。


完璧なシャドーを目指すため、ケイトは熱心に勉強を始めました。

まずは「シャドーの教え」を読み込みます。「こびりつき」の記述を見つけると、自身の身体を「本当に最低ね」と零しました。どうやら先程こびりつきを踏み潰したのはただの偶然だったようです。同時に、毎日掃除をしてくれていた侍女に思い馳せました。確かに全く難儀な身体です。

勉強と並行して、部屋での生活についてケイトは詳細に観察します。

着替えや食事は寝ている間に用意されるそうですが、これは本来、生き人形の仕事だそうです。つまり、ケイトの場合はエミリコの仕事だということです。

しかし肝心の“生き人形”はまだ部屋に来ません。どうしたことでしょうか?


このことについて、ケイトは「モーフをシャドーにする最終段階」だと推理しました。生き人形が使用人として準備されている時間、それが今の状況だということです。

そういえば、第62話(エミリコとショーンの夜空デート回)でショーンは、ジョンと自身の記憶に差がないと言っていました。ジョン曰く、部屋で暫く過ごしていたらショーンがやってきたというのです。

これを今回のエピソードに照らし合わせると、部屋に連れてきた直後の人型モーフはまだ未完成で、自我を持ち始めて暫くしてから生き人形が来るということでしょう。

生き人形の準備期間であるとともに、シャドーの準備期間でもあるのです。


そしてそれを証左するかのように、変化が訪れます。

以前は鍵の掛かっていた部屋のドアが、なんと開いたのです。

第53話でケイトは、エミリコの「なぜ鍵がないのでしょうか?」という質問に対し、名目上貴族を謳っているのだから監禁されていると思わせないため、と答えていました。ということは、館側からすればケイトはモーフではなく、シャドーとして自我を持ち始めたと認定されたことになります。

そして、忠実なシャドーであれば部屋から出ないだろう、という判断のもとで実施された措置でもあります。

ケイトもそんな館の意思を感じ取ったのか、まだ部屋を出るのは早いとルールに従いました。


その時、誰もいないはずのケイトの部屋から物音がしました。突然の出来事にケイトは驚き、急いで振り返ります。

そこでケイトが目にしたのは、大きいナイフが飾られたあの壁でした。
エミリコがいつもケイトの部屋を出入りする時に使う回転扉です。

そしてそこから出てきたのは、予想通りエミリコでした。彼女の服は、スタンダードではなく第1話から我々が目にしてきたあのメイド服です。

ケイトと相対すると、ケイトの名を呼んで挨拶しました。


ケイトはそれを聞き、エミリコが名前を覚えてくれていたことに感激します。ようやく、ようやくケイトのことを理解してくれる仲間に会うことができたのです。

エミリコはミラーサイドの他のこどもたちとは違います。ちょっとおかしな子ですが、煤で洗脳された村人に比べれば、よっぽどまともな少女です。だからこそケイトは、彼女が作ってくれた人形を大切にし、辛い旅の中で出会ったエミリコのことを心の支えにしていたのです。

そして、ミラーハウスを取り戻すだけではなく、エミリコをシャドーハウスから救うことを目指してこれまで耐えてきました。


ところが、その少女はケイトのことを「ケイト様」と呼び「はじめまして」と挨拶します。まるで初対面であるかのような接し方です。

それどころか、ケイトのことを「ケイト・シャドー様」「シャドー家の貴族」なのだからゆっくりしてて下さい、と言うことを聞きません。

ケイトは、あのエミリコまでもがシャドーハウスを崇めているのを聞き焦ります。もしかして脅されているのではないかと、必死でエミリコに自分は敵ではないと訴えかけました。

しかしエミリコは、自分が作った人形を見ても一向に反応しません。ただその様子を眺めているだけです。本当にケイトのことを覚えていないかのようです。

その姿を見てケイトは更にヒートアップしました。

また会えて嬉しいと、共にこの館の秘密を暴こうと、エミリコを説得します。

ところが、ケイトは勢いのあまり、口にしてはならない言葉を言ってしまいました。


「シャドーハウスはおかしいのよ!」


一瞬の間を置き、エミリコの様相が暗転します。ケイトの持っている人形を力いっぱい叩き落とし、エミリコは激昂しました。


「シャドーハウスは絶対です!!」


眉間に皺を寄せ、目を見開き、大声でケイトを恫喝するエミリコ。

あまりに凄まじい形相を目の前にして、とうとうケイトの心は折れました。
よろめき、床に座り込むと、絶句したままシャドーハウスの真の姿を悟ります。

決して、反意は許されない館。それがシャドーハウスだったのです。


第1話でケイトは、人の目を見て話すのが苦手だと言っていました。

それは、この時のエミリコの禍々しい瞳を忘れることができていなかったからなのかも知れません。