先日、京都の桜が過去1200年間で最も早く開花したとニュースになっていました。
(→BBC NEWS JAPAN)
1200年!?
京都には桜の開花に関する記録が数多く現存しており、それを辿ると1200年前分の開花データが揃うというのです。
「千年王城」と呼ばれるほど長らく我が国の首都だった京都。「鳴くよ(794)鶯 平安京」なんて語呂合わせを覚えている方も多いかと思いますが、1200年ということは長岡京から遷都して以来ずっと記録され続けてきたということでしょう。
この季節になるとひしひしと感じますが、日本人の桜に対する愛が一層感じられるニュースでした。(そもそも「サクラ」の語源自体が日本文化そのものみたいなものですし)
ただ、日本人の桜にかける情熱もさることながら、日本人の「筆まめ」さも理由として挙げられると思います。
例えば、現代において頻繁に話題になる地球温暖化ですが、その気象データとして長野県諏訪湖の御神渡りが近年注目されていると言われています。
なぜなら、湖畔に位置する八剱神社には室町時代から続く御神渡りの記録が残っているからです。
この記録は各年の御神渡りができた初日を記したものですが、それを解析することで諏訪湖地域の600年弱の気温の変化が分かるそうです。そういわれると貴重なデータです!
また、福岡県の「直方隕石」は落下状況が目撃された最古の現存する隕石とされていますが、須賀神社に残る墨書がその証拠となっています。
他にも、昭和新山の誕生を克明に記録した「ミマツダイヤグラム」は国際会議で「日本にミマツあり」と高く評価され、世界中の地質学者から称賛されました。
それ以外にも、文化的価値がある「更科日記」や、幕末の歌舞伎役者・中村仲蔵が桜田門外の変を目撃した商人から話を集めた日記が残るなど、歴史的な記録が膨大に残っています。
記録よりも記憶、なんていうフレーズも見聞きすることも多いですが、時が経つにつれて曖昧になる「記憶」に対して「記録」は信憑性が高いです。
それを思うと、官製ではない個人的な見解や記録が、古くからこれほどまでに残っている国は例がないと思います。それが今になっても役に立っているのですから驚きですね。
(じゃあなんで重大事件の調書が破棄されたり、気象庁が保管してたはずの「カンテラ日誌」が処分されてるんだと言いたくなりますが)
さて、長くなりましたが、先ほども述べた通り「記憶」とは曖昧です。皆様も頭に残っている記憶と残されたメモの内容が違っていた、抜けがあったなんていう経験をしたことが一度はあるかと存じます。
私自身も本ブログの過去記事を読んでいて「こんなことあったんだっけか?」とすっかり忘れてしまっていたことも珍しくありません。その度に、書けるものはなるべく残すべきだなあと感じる毎日です。
それと同じく、シャドーハウスの劇中にも似たものが存在します。
エミリコの「考えないノート」です。
このノートはエミリコが「余計なことは全部書いて忘れちゃおう」(第21話)と思い立ったことで誕生したノートですが、それが重要なアイテムとして機能していることは説明するまでもないでしょう。積み重ねてきた記録は、時として力になるのです。
今回の第215話でも「考えないノート」に似たアイテムが登場しました。
その持ち主はベンジャミンの従者・ベンです。
こどもたちの中で並外れた筋肉を持つ彼ですが、その本当の「力」は筋肉だけではなく、積み重ねてきた記録も貴重な「力」となりました。
(→BBC NEWS JAPAN)
1200年!?
京都には桜の開花に関する記録が数多く現存しており、それを辿ると1200年前分の開花データが揃うというのです。
「千年王城」と呼ばれるほど長らく我が国の首都だった京都。「鳴くよ(794)鶯 平安京」なんて語呂合わせを覚えている方も多いかと思いますが、1200年ということは長岡京から遷都して以来ずっと記録され続けてきたということでしょう。
この季節になるとひしひしと感じますが、日本人の桜に対する愛が一層感じられるニュースでした。(そもそも「サクラ」の語源自体が日本文化そのものみたいなものですし)
ただ、日本人の桜にかける情熱もさることながら、日本人の「筆まめ」さも理由として挙げられると思います。
例えば、現代において頻繁に話題になる地球温暖化ですが、その気象データとして長野県諏訪湖の御神渡りが近年注目されていると言われています。
なぜなら、湖畔に位置する八剱神社には室町時代から続く御神渡りの記録が残っているからです。
この記録は各年の御神渡りができた初日を記したものですが、それを解析することで諏訪湖地域の600年弱の気温の変化が分かるそうです。そういわれると貴重なデータです!
また、福岡県の「直方隕石」は落下状況が目撃された最古の現存する隕石とされていますが、須賀神社に残る墨書がその証拠となっています。
他にも、昭和新山の誕生を克明に記録した「ミマツダイヤグラム」は国際会議で「日本にミマツあり」と高く評価され、世界中の地質学者から称賛されました。
それ以外にも、文化的価値がある「更科日記」や、幕末の歌舞伎役者・中村仲蔵が桜田門外の変を目撃した商人から話を集めた日記が残るなど、歴史的な記録が膨大に残っています。
記録よりも記憶、なんていうフレーズも見聞きすることも多いですが、時が経つにつれて曖昧になる「記憶」に対して「記録」は信憑性が高いです。
それを思うと、官製ではない個人的な見解や記録が、古くからこれほどまでに残っている国は例がないと思います。それが今になっても役に立っているのですから驚きですね。
(じゃあなんで重大事件の調書が破棄されたり、気象庁が保管してたはずの「カンテラ日誌」が処分されてるんだと言いたくなりますが)
さて、長くなりましたが、先ほども述べた通り「記憶」とは曖昧です。皆様も頭に残っている記憶と残されたメモの内容が違っていた、抜けがあったなんていう経験をしたことが一度はあるかと存じます。
私自身も本ブログの過去記事を読んでいて「こんなことあったんだっけか?」とすっかり忘れてしまっていたことも珍しくありません。その度に、書けるものはなるべく残すべきだなあと感じる毎日です。
それと同じく、シャドーハウスの劇中にも似たものが存在します。
エミリコの「考えないノート」です。
このノートはエミリコが「余計なことは全部書いて忘れちゃおう」(第21話)と思い立ったことで誕生したノートですが、それが重要なアイテムとして機能していることは説明するまでもないでしょう。積み重ねてきた記録は、時として力になるのです。
今回の第215話でも「考えないノート」に似たアイテムが登場しました。
その持ち主はベンジャミンの従者・ベンです。
こどもたちの中で並外れた筋肉を持つ彼ですが、その本当の「力」は筋肉だけではなく、積み重ねてきた記録も貴重な「力」となりました。
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ベンの初登場は第17話でしたが、彼自身の考えや台詞が描かれたのは第151話の時くらいでしょうか。
曲芸のようにエミリコを片手に乗せて「俺でも掃除の役に立てそうだ」と満面の笑みを見せていた、あのエピソードです。今振り返ると“星つきと仲良し作戦”のフィナーレともいえる心温まる回でした。(その次のエピソードが悲惨すぎるのでそう思わないとやってられないですが)
しかしながら、もっと詳細に見ていくと他にもありました。
第76話でのバービーの回想です。
かつてのクリストファーがいた頃の、和やかだったこどもたちの棟。そこには今とは全然違う、細身のベンがランニングをしていました。
先頭を走るバービーについていくものの弱音を吐いており、息を切らしている様子を見ると当時は体力もそこそこだったのが分かります。第126話では主人のベンジャミンが「筋肉など…無力だ…」と零していること、第151話ではベンが「口下手でひ弱だった」「自分からは何もできなかった」と後悔していたことを考えると、ベンジャミンとベンは、バーバラとバービーの恩に報いるために筋トレに励むようになったということでしょう。
ベンジャミンとベンのマッスルボディは、そうして生まれたのです。
ところが、人間の内面とはそう変わらないもので、ベンは星つきになってもその体躯に似合わない役職をしていました。
「書記」です。
踏み台に乗ってこどもたちを威圧するバービーの横で、バインダーを持って寡黙に立つ筋肉ムキムキな少年。
第17話公開当時の読者の感想の中にも、なぜ彼が書記なのかという疑問があったことを覚えています。確かアニメ一期が放映された時も似た感想が頻出していました。それだけ違和感のある印象的なシーンでした。
(そういえばそろそろアニメ1期放映から4年かあ。早い)
ただそれも、第126話で描かれた細身のベンジャミンとベンを見て大体察しがつきました。恐らく元々のベンジャミンとベン、というより村時代のベンは今よりずっとスマートだったのではないかと。
そして今回の第215話では当時のことが明かされたことで、これまでの描写が伏線だったのが判明しました。やはり村時代のベンは内向的で家にばかりいて勉強する毎日だったようです。
元々の彼のパーソナリティ、それを活かす役職が「書記」だったのですね。人は見かけによらずと言いますが、ベンジャミンのすす能力が物理系ではなく精神系なのも、そうしたベンの性格が反映されているのかなと感じました。
しかし、自分を変えようとしても変えられなかった部分があったことが、巡り巡って助けになるとはベンも思わなかったでしょう。
本記事の冒頭でも述べましたが、ベンも「記録ノート」を取っていたからです。
「星つき在籍時に書記担当だった癖で今も日々の記録が日課なのです」と語るベン。
多分書記になる前から似たようなことしていたんじゃないかなあと思いますが、それはさておき生き人形のノートといえば真っ先に思い出すのがエミリコの「考えないノート」です。
エミリコの考えないノートが最も活躍した第46話の「すすによる病」
あの洗脳解除エピソードは有名でしょう。ケイトが涙ながらにエミリコに苦痛を強い、洗脳から目覚め号泣するエミリコを抱きしめたあの回は、シャドーハウス屈指の名エピソードでもあります。
エミリコの洗脳解除に大きな役割を果たした「考えないノート」と同じようなアイテムが、ベンジャミンとベンの洗脳完全解除にも大きな役割を果たすとは面白い縁です。
研究班謹製蛋白質補助棒(緩入り)(原文ママ)が洗脳の解除=「記憶」の回復に一躍買ったとしたら、ベンの記録ノートはその“記憶”を裏付ける援護射撃となったことでしょう。
本話のサブタイトルは「記憶と記録」でしたが、その相互作用がベンジャミンとベンを目覚めさせ、さらなる結束を生んだと考えるとまさに相応しいサブタイトルだったと言えますね!
さて、月並みな感想にはなりますが、今回の第215話を読んで一番感じたのは「主従の関係性」って大事なんだなあという事実です。
今回のエピソードでは、ベンジャミンとベンの洗脳完全解除が描かれていたわけですが、事実を突き付けられても動じないベンジャミンとベンの強さって相当だと思うんですよね。
例えば、ミアが記憶を取り戻していることは第194話で描かれているものの「私の主人はハズレ」「正気になんて戻らない」と険しい顔で佇んでいましたし、マギーに至っては第164話で「私の大嫌いな…主人」「無様に死んだ…」「醜い…化け物」呼ばわりです。
ですが、ベンも「シャドーを貴族と信じ込まされていたことに今は不信感を抱いています」と語っているにも関わらず、ベンジャミンから「ベンジャミンもシャドーだぞ?」と言われるまで意識をしていなかったといいます。ベンの中では「シャドー」という存在と「ベンジャミン」という主人は別個の存在となっているのです。
ここで思い出されるのが第97話のリッキーです。
あの時のリッキーは記憶を完全に取り戻していなかったものの、自分自身が人間だと気づき、パトリックやシャドーに対して不信感・恐怖心を抱いていました。コミカルに描かれていた(というか読者がギャグ回と受け取っていた)エピソードではありますが、洗脳から目覚めた生き人形の心理がリアリティを持って感じられたシーンの連続でした。
マギーもそうでしたが、自分のシルエットに酷似した生命体が目の前にいたらまずはおかしいと思うのが普通なのです。
ではエミリコ・リッキー・ベンと、マギー・サラとは何が違ったのか。
それはやはり主従間での「絆」でしょう。
陳腐な答えと思われるでしょうが、それこそが決定的な違いだと思います。
エミリコとケイト、パトリックとリッキーの関係性は語るまでもないので割愛しますが、ベンジャミンは第65話で「顔だけではなく体も労ってやれ」とルイーズに諭していたように、普段からベンのことを大切にしていたのでしょう。それこそケイトやパトリックのように。
そして館に反旗を翻したマリーローズとローズマリーもそうした関係性を築いていました。
主従が互いに想い合っていれば、シャドーハウスという館の悪意を乗り越えることができるという好例です。これこそがシャドーハウスという作品で描かれる希望の一つです。
そうとなれば、肝心の「ルイーズ完全復活作戦」にも光明が見えるというものです。
なぜならルイーズは既に「顔」(=ルウ)のことを大切にしているからです。
ベンジャミンに先駆けてマリーローズも「顔は大切に扱うんだよ」(第65話)とルイーズにアドバイスしていましたが、ベンジャミンとマリーローズという従者と健全な関係性を構築した二人からこうまで言われていたならルイーズだってルウを大切にしていたはずです。
その結果は第187話でもう描かれました。ルウはルイーズを守るために身を投げ出すまでに慕っていたのは記憶に新しいところです。
トレーニングルームで少なくない時間を共に過ごしていたであろう、ベンジャミン組とルイーズ組。
今回の第215話は、ルイーズ完全復活作戦のピースがまた一つ埋まったと感じさせるエピソードでした。
ベンの初登場は第17話でしたが、彼自身の考えや台詞が描かれたのは第151話の時くらいでしょうか。
曲芸のようにエミリコを片手に乗せて「俺でも掃除の役に立てそうだ」と満面の笑みを見せていた、あのエピソードです。今振り返ると“星つきと仲良し作戦”のフィナーレともいえる心温まる回でした。(その次のエピソードが悲惨すぎるのでそう思わないとやってられないですが)
しかしながら、もっと詳細に見ていくと他にもありました。
第76話でのバービーの回想です。
かつてのクリストファーがいた頃の、和やかだったこどもたちの棟。そこには今とは全然違う、細身のベンがランニングをしていました。
先頭を走るバービーについていくものの弱音を吐いており、息を切らしている様子を見ると当時は体力もそこそこだったのが分かります。第126話では主人のベンジャミンが「筋肉など…無力だ…」と零していること、第151話ではベンが「口下手でひ弱だった」「自分からは何もできなかった」と後悔していたことを考えると、ベンジャミンとベンは、バーバラとバービーの恩に報いるために筋トレに励むようになったということでしょう。
ベンジャミンとベンのマッスルボディは、そうして生まれたのです。
ところが、人間の内面とはそう変わらないもので、ベンは星つきになってもその体躯に似合わない役職をしていました。
「書記」です。
踏み台に乗ってこどもたちを威圧するバービーの横で、バインダーを持って寡黙に立つ筋肉ムキムキな少年。
第17話公開当時の読者の感想の中にも、なぜ彼が書記なのかという疑問があったことを覚えています。確かアニメ一期が放映された時も似た感想が頻出していました。それだけ違和感のある印象的なシーンでした。
(そういえばそろそろアニメ1期放映から4年かあ。早い)
ただそれも、第126話で描かれた細身のベンジャミンとベンを見て大体察しがつきました。恐らく元々のベンジャミンとベン、というより村時代のベンは今よりずっとスマートだったのではないかと。
そして今回の第215話では当時のことが明かされたことで、これまでの描写が伏線だったのが判明しました。やはり村時代のベンは内向的で家にばかりいて勉強する毎日だったようです。
元々の彼のパーソナリティ、それを活かす役職が「書記」だったのですね。人は見かけによらずと言いますが、ベンジャミンのすす能力が物理系ではなく精神系なのも、そうしたベンの性格が反映されているのかなと感じました。
しかし、自分を変えようとしても変えられなかった部分があったことが、巡り巡って助けになるとはベンも思わなかったでしょう。
本記事の冒頭でも述べましたが、ベンも「記録ノート」を取っていたからです。
「星つき在籍時に書記担当だった癖で今も日々の記録が日課なのです」と語るベン。
多分書記になる前から似たようなことしていたんじゃないかなあと思いますが、それはさておき生き人形のノートといえば真っ先に思い出すのがエミリコの「考えないノート」です。
エミリコの考えないノートが最も活躍した第46話の「すすによる病」
あの洗脳解除エピソードは有名でしょう。ケイトが涙ながらにエミリコに苦痛を強い、洗脳から目覚め号泣するエミリコを抱きしめたあの回は、シャドーハウス屈指の名エピソードでもあります。
エミリコの洗脳解除に大きな役割を果たした「考えないノート」と同じようなアイテムが、ベンジャミンとベンの洗脳完全解除にも大きな役割を果たすとは面白い縁です。
研究班謹製蛋白質補助棒(緩入り)(原文ママ)が洗脳の解除=「記憶」の回復に一躍買ったとしたら、ベンの記録ノートはその“記憶”を裏付ける援護射撃となったことでしょう。
本話のサブタイトルは「記憶と記録」でしたが、その相互作用がベンジャミンとベンを目覚めさせ、さらなる結束を生んだと考えるとまさに相応しいサブタイトルだったと言えますね!
さて、月並みな感想にはなりますが、今回の第215話を読んで一番感じたのは「主従の関係性」って大事なんだなあという事実です。
今回のエピソードでは、ベンジャミンとベンの洗脳完全解除が描かれていたわけですが、事実を突き付けられても動じないベンジャミンとベンの強さって相当だと思うんですよね。
例えば、ミアが記憶を取り戻していることは第194話で描かれているものの「私の主人はハズレ」「正気になんて戻らない」と険しい顔で佇んでいましたし、マギーに至っては第164話で「私の大嫌いな…主人」「無様に死んだ…」「醜い…化け物」呼ばわりです。
ですが、ベンも「シャドーを貴族と信じ込まされていたことに今は不信感を抱いています」と語っているにも関わらず、ベンジャミンから「ベンジャミンもシャドーだぞ?」と言われるまで意識をしていなかったといいます。ベンの中では「シャドー」という存在と「ベンジャミン」という主人は別個の存在となっているのです。
ここで思い出されるのが第97話のリッキーです。
あの時のリッキーは記憶を完全に取り戻していなかったものの、自分自身が人間だと気づき、パトリックやシャドーに対して不信感・恐怖心を抱いていました。コミカルに描かれていた(というか読者がギャグ回と受け取っていた)エピソードではありますが、洗脳から目覚めた生き人形の心理がリアリティを持って感じられたシーンの連続でした。
マギーもそうでしたが、自分のシルエットに酷似した生命体が目の前にいたらまずはおかしいと思うのが普通なのです。
ではエミリコ・リッキー・ベンと、マギー・サラとは何が違ったのか。
それはやはり主従間での「絆」でしょう。
陳腐な答えと思われるでしょうが、それこそが決定的な違いだと思います。
エミリコとケイト、パトリックとリッキーの関係性は語るまでもないので割愛しますが、ベンジャミンは第65話で「顔だけではなく体も労ってやれ」とルイーズに諭していたように、普段からベンのことを大切にしていたのでしょう。それこそケイトやパトリックのように。
そして館に反旗を翻したマリーローズとローズマリーもそうした関係性を築いていました。
主従が互いに想い合っていれば、シャドーハウスという館の悪意を乗り越えることができるという好例です。これこそがシャドーハウスという作品で描かれる希望の一つです。
そうとなれば、肝心の「ルイーズ完全復活作戦」にも光明が見えるというものです。
なぜならルイーズは既に「顔」(=ルウ)のことを大切にしているからです。
ベンジャミンに先駆けてマリーローズも「顔は大切に扱うんだよ」(第65話)とルイーズにアドバイスしていましたが、ベンジャミンとマリーローズという従者と健全な関係性を構築した二人からこうまで言われていたならルイーズだってルウを大切にしていたはずです。
その結果は第187話でもう描かれました。ルウはルイーズを守るために身を投げ出すまでに慕っていたのは記憶に新しいところです。
トレーニングルームで少なくない時間を共に過ごしていたであろう、ベンジャミン組とルイーズ組。
今回の第215話は、ルイーズ完全復活作戦のピースがまた一つ埋まったと感じさせるエピソードでした。
