こちらの絵は、ウジェーヌ・ドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」です。

民衆を導く自由の女神

恐らくほとんどの方が見たことがあるかと存じます。フランス革命(1789₋1815)の後に起こった7月革命(1815)を主題とした作品です。


さて、こちらの写真はフランスに旅行した際にルーブル美術館で撮ってきたものですが、実を言いますとブログを書き始めてからこの作品を紹介しようとしたことが何度もありました。

何と言っても、市民が自らの権利のために立ち上がる絵画として著名ですからね。

シャドーハウスは、ケイトとエミリコが自分たちの自由を求めて、シャドーハウスという強大な力を持った館に立ち向かう漫画です。それはさながら、人類の歴史の中で繰り返されてきた光景です。

ならば、「民衆を導く自由の女神」はそうした歴史を映した象徴的な作品ですから、ケイトとエミリコの姿を重ね合わせるのは難しくないのではないでしょうか?


まあ、もっともそんなことを考えているのは影野だけだろうと言われたらそれまでですが、これまでずっとそんなことを想像していたんですよね。それこそ、ケイトとエミリコの悲願が達成した暁にはこの絵画を載せてみようかなと夢想していました。

そんな日が訪れたら、それこそシャドーハウスにおける革命的な出来事だろうと。


しかし、全く釈然としませんが、あまりにも異なるエピソードでこの作品を紹介することとなってしまいました。

ただ、この230話こそがそれに相応しいのではないかと問われると答えに窮する自分もいるのです。


サブタイトルに称される「旗揚げ」

その先頭には、あの男の傀儡が颯爽と旗を振っていました。
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前回のサラの衝撃的な告白劇から一転、今回のエピソードはやや穏やかにスタートしました。

そういえばすっかり頭から抜けていましたが、ラストでちらっとジョゼフが登場していたんですよね。

前回ラストページの柱に「残った痛みにひたる間もなく…。」なんて書いてありましたが、生き人形同士の諍いに囚われることなく、事態は刻一刻と進展していきます。それは“大人”も同じで、ジョゼフは重鎮同士の議論の結果をケイトに知らせるべく現れたというわけです。


ただ、ひとまずはジョゼフと星つき4対だけの密談ですから比較的落ち着いています。

最初のコマをよく見るとエヴリンがエミリコの頬の様子を確認していますね。診断結果は「腫れてるだけよ」「すぐ治るわ」とのことでエミリコもほっとしたようです。

ケイト達を見ていると忘れがちですが、生き人形の本分はお影様の「顔」です。単行本1巻を読み返せば、これでもかというくらいに強調されていた生き人形の大切なお仕事です。それを思えばミアはずいぶんと酷いことをしたものです。こればかりは責められても仕方ないでしょう。

ケイトは話をややこしくしないためかジョゼフに「大目に見てあげて」なんて言っていますが、この事態がひと段落したら当事者のダグも含めて、心のメンタルケアもしてあげて欲しいなあと思いました。


多分ですが、ダグも主人のダグラスも結構心に来ていると思うんですよね。

なぜかと言いますと、同期を失うというシチュエーションが、ピーター・ピート組とマーガレット・マギー組の顛末を想起させるからです。

ピーターは「すすツタ事件」の後、第164話にてマーガレットが命を落としたことを悔いていました。

それとは違ってサラとミアはまだ生きながらえていますが、前回のミアの行動は、現状を考えると主従共にかなり窮地に陥らせた感はあります。ケイトの上記の発言からしても、正直サラとミアに構っている場合ではないですしね。

サラとミア自身がどうにかしようとしない限り、道を踏み外したまま歩くしかないというのがほぼ確定している以上、ここから助かる見込みはほとんどないです。


となると、サラと少なからず接触していたダグラスも思うところがあるでしょうし、ダグなんかは第194話で「つかず離れずお互いを利用するような関係」だったとはっきり言っていますから、前回の件は割とショックだったんじゃないかと思うのです。

今回の描写を見る限りですとダグラスはそこまで気にしていなさそうではありますが、ミアの現状を目の当たりにしたダグはどう思っているのか聞いてみたところであります。


さて、話を戻しますが、偉大なるおじい様について面白い情報が得られましたね。

ジョゼフ曰く「最後に発言した者が同意を求めると受け入れる傾向にある」とのことです。

しかも「本人の意思や目的は結局何もわからない」だとか。


う~ん、これはなんと言いますか、謎が謎を呼ぶ展開ですね。むしろ一歩進んで二歩下がると言った方が適切かも知れません。

これまで偉大なるおじい様について、実は重鎮たちの傀儡だとか、それどころか誰かが操っている「すす袋」なんていう考察がSNSやヤンジャンアプリのコメント欄で見受けられましたが、その可能性もあるんじゃないかと思えてきました。

その反面、偉大なるおじい様という存在が何を発端として現れたのか、なぜそんな回りくどい方法で館を治めているのか、偉大なるおじい様を生み出したのは誰なのかという疑問も出てきます。

それこそ、ソフィ・ドロシー・ライアンが偉大なるおじい様を操っていると仮定した場合、それならばなぜ今までジョゼフが重鎮たちの取りまとめをする地位にありつけたのかというのが意味不明ですし、情報が出てきたもののより混沌としてきただけな気がします。

「偉大なるおじい様」なる存在の正体は、まだまだ判明する気配が感じられないですね。


しかしながら、此度明かされた「最後に発言した者が同意を求めると受け入れる傾向にある」というジョゼフの台詞が、本エピソードのラストをより衝撃的なものにしているのは否定できないでしょう

ケイトらがいる「謁見の間」にけたたましく響くノックがもたらしたのは、こどもたちが急襲してきたという信じがたい報でした。

大人たちの棟とこどもたちの棟を繋ぐ唯一の「栄光の廊下」を通じて、こどもたちが攻めてきたというのです。


音頭を取るのはルイス。これまでバービーがこどもたちをまとめるために使っていたハンドベルを使って侵攻を促しています。

それと前後して、誰が放ったか分かりませんが多数の矢が境界線を越えて大人達に突き刺さります。

続いて、いつの間に拵えたのか、戦闘服と思しき衣服を纏ってリンジーが先陣を切って突撃します。

その後にいるのはギルバート。なんとリンジーと同じ服を着ています。一突きで廊下の扉を突き破りました。


そして、見開きページに描かれたのは、偉大なるおじい様を塗りつぶした「旗」を振りかざして進むクリストファー。


これが、本記事の冒頭で語った「旗揚げ」の姿でした。

あとに続くこどもたちも、何人もが拳を突き上げて歩いています。ルイスの言うように、彼らは自分たちの行動が正義だと、「革命」だと信じて高揚しているのでしょう。でなければ、これまでタブーであった大人たちの棟への侵攻など起こりえなかったに違いありません。


しかし、これが真の「革命」でないことは読者からすれば明らかです。ケイト達にとってもそうでしょう。

そもそもが、こんなことを扇動するのはアンソニーを置いてほかにないからです。

アンソニーがこどもたちの幸せを願っているはずもないですし、動機は自らがシャドーハウスという館、ひいてはすす島を手に入れるという欲求のみです。彼はそうやって何人もの犠牲者を出してきました。

それのみならず、今回は多数の死者が出ています。少なくとも5名ほど倒れていますが、そんなものでは済まないでしょう。明らかに一線を越えました。これでは大人側も黙っているはずがありません。


それを証明するが如く、重鎮の間でも討伐すべきという意見が多数を占めました。

「最後に発言した者」が求めた「同意」

それはライアンの「こどもは1人残らず処分」でした。


先ほど、生き人形の「顔」の役割について振り返りましたが、今話の終盤を読んでいて、再度単行本の第1巻のとある台詞を思い出しました。

それは第1話の「それにお洋服」「シャドーにとって大切な『個性』だから」です。

この台詞はケイトから発せられたものでした。

ケイトはあの時、横顔とエミリコ、そして洋服がシャドーの個性として大切なものと語っていました。各々のシャドーが纏う服は、読者にとってもそれぞれのシャドーの個性を構成する要素であり、象徴でもありました。


ところが、それが今のこどもたちにはありません。

彼ら彼女らが身に纏っているのはアンソニーがこの時だけのために作った、戦闘のためだけの制服です。

これに気付いた時、アンソニーにとって“シャドー”も“生き人形”も自分だけのものであり、個性など必要ないという禍々しい信念が感じられてなりませんでした。

そんな男にとって、今現在こどもたちが信じているであろう「革命」など何の価値もなく、数多の犠牲者も踏み台でしかないのは確実です。それどころか重鎮たちが下した「こどもは」1人残らず処分」という結論さえも利用しているのではないかと思えてきます。


確かに、ケイトも4巻表紙で偉大なるおじい様の肖像を引き裂いていました。今まさにクリストファーが掲げる旗と似てはいます。

しかし、そこに横たわる理念は全く違うものです。何よりも、ケイトはこどもたちの犠牲がこれ以上でないようにと行動してきました。

ただ、長い間ケイトが掲げたその理想はもはや望めないのかも知れません。

双方の諍いで犠牲者が出たとなれば、もはや残るは互いの命のやり取りしかないからです。


「栄光の廊下」


その名に反して、今この廊下を通る者がもたらすのは、暗澹たる明日でしかないというのはなんという皮肉でしょうか。