「水は地球の命です」

こんなキャッチコピーのCMが流れていたのはもう30年位前でしょうか。今やご存じの方も少なくなっていることと思います。

しかし、人、そして生物の営みに水が欠かせないのはいつの時代も同じです。四大文明を例に上げるまでもなく、人は水を求めて河川の近くに街を築きました。

川沿いに住むとなれば洪水などのリスクも当然ありますが、それでも背に腹は代えられません。結果、人類は長い歴史の中で治水技術を発達させ河川近くに都市を作るまでになりました。

そういえば今年の夏、首都圏の命綱・利根川の源流が発見されてから丁度50年と話題になっていましたが、そうした治水に携わってきた先人のお陰で我々は便利な生活を享受することができています。


ところで、先程四大文明について触れましたが、現代でも大都市には河川(ウォーターフロント)はつきものです。

ニューヨークのハドソン川、パリのセーヌ川、東京の隅田川……

そしてシャドーハウスのモデルとなっているイギリスではロンドンのテムズ川が有名です。「世界都市」と呼ばれるこれらの都市において、いかに河川が重要な役割を果たしているのかがよく分かりますね。上記の都市が発展したのは決して偶然ではないのです。
テムズ川
(この写真は12年前のロンドンです。色んな船が行き交ってる!)


しかし、光あるところには必ず影があります。

繰り返しますが、河川は人間にとって重要な場所です。

それが故に、かつてのテムズ川は過酷な生活を強いられた人々が集まり、辛うじて命を繋ぐ悲惨な場所になっていました。身寄りのない子供たちが豊かな大都会の「おこぼれ」に預かろうと、川底に埋まった品々を漁っていたのです。


「泥ひばり」


そう称された貧しい人々。

その中にかつて、我々がもっともよく知る人物がいました。



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さて、前回のラストでは「偉大なるおじい様」の謎にいよいよ迫る!、といった形で物語が締めくくられましたが、今回の第209話では趣の違うエピソードが描かれました。

しかしSNSを眺めていますとかなりの反響があったようですね。

その反応をざっくり分けると「エミリコの境遇」と「ショーンの反応」に大別されるでしょうか。

既にお読みの方には説明するまでもないですが、サーカス入団以前の悲惨なエミリコの姿が描かれたこと、エミリコとショーンの甘酸っぱいエピソードが展開されたこと、ラストにショーンがこれまでに見せなかった表情が描かれたことがその理由かと思います。

特に、後半にかけて繰り広げられた「エミリコを必死に慰め引き留めるショーン」「エミリコの惜別とも親愛ともとれるおやすみのキス」「エミリコが去った後に赤面するショーン」については、第66話を彷彿とさせる感想が多く見受けられました。

第66話と言えばパトリックがエミリコに対する恋心を自覚した、あの名エピソードです。

それと重なるように描かれた、エミリコの眩しい表情、何とも言えないもどかしさを感じさせる少年と少女とのやり取り、恋心の自覚という心動かされる瞬間……


いや~、こんなエピソードが展開されたとあれば反響もやむなしです!

最後のショーンの表情がエミリコへの恋心の自覚なのか、はたまたエミリコの意外な行動に驚き、かつ口づけという少年にとって気恥ずかしい行動に対する赤面なのかは判断の分かれるところかも知れません。

しかし「少女漫画みたい」と評された第62話(当時の先生のツイート→時期的に62話はもう校了)と比べれば、二人の関係に変化が生じたとみて間違いないでしょう。

家督争いが本格化しつつある中、ケイトを主人公として語られることが多くなったシャドーハウスにおいて、もう一人の主人公・エミリコがどうストーリーに絡んでくるのかというのは気になるところでした。

ソウマトウ先生もpixivファンボックス(有料記事)の中でそこの辺りを注目して欲しいといった旨の投稿をされていましたが、早速その答えをお出し下さったということでしょうかね。

私も読んでいて「ここでこうきたか!?」と驚かずにはいられませんでした。


ただ。

非常に申し訳ないのですが、第209話を語るにあたって後半部分も欠かせない要素であるものの、そこについてはすみません割愛させて下さい。

エミリコとショーンのやり取りについて反響が大きいのは承知ですが、個人的にエミリコの境遇の方がかなり心に残ってしまったんですよね。

まあこれに関しては、単純に私が恋愛や性愛といった事柄と無縁であることが関係しているのかなと思っていますが、それに加えて、これまで長い間エミリコという少女に感情移入してしまっているというのも大きい気がします。

ということで、クリスマスというまさに「星降る夜」ではありますが、本記事ではエミリコの過去が語られた前半部分について注視していきたいと思います。


ところで、「泥ひばり」という言葉。

実を言いますと第209話を読むまでこの言葉を知りませんでした!さきほどは知ったような口きいてすみません!!

調べてみるとwikipediaにも記事があるんですね。(→泥ひばり)

最初にエミリコの台詞を見た時は「鳥絡みかあ、エミリコ鳥好きだものね」とか「ひばりと泥とはまた面白い表現だなあ」と思っていたのですが、実態はそんなのほほんとしたものではありませんでした。かつてのロンドンではごく普通の光景だったとはいえ、調べてみると悲惨の一言です。以前ロンドンに行った時はそんな歴史の暗部は全く感じられませんでしたが、見た目だけではわからないことばかりですね。

余談ですが、江戸時代に日本を訪れた欧米人が子供たちを見て「ここは子供にとって天国だ」「こどもを大切にする文化がここにはある」と我が国を評していたと聞いたことがあります。

そうした背景には、欧米では貧しさに苦しむ子供たちが珍しくなかったという実態があったからでしょう。

シャドーハウスを読み始めてからというもの、これまで知らなかった物事について知る機会が多くなりましたが、自分の興味外のことに目を向けさせてくれるシャドーハウスはさながら私にとって未知の案内人です。今回の泥ひばりもそうですが、細かい現実世界の事象を取り込みながらも物語を創出させるソウマトウ先生の凄みには毎度感嘆せずにはいられません。これから先もどんな事柄が作中に登場するのかますます楽しみです。


ただ、そう書いてみたものの第209話のエピソードを「楽しみ」と言うのは不謹慎の極みでしょう。

今回の物語ではサーカス入団以前のエミリコの姿が描かれていますが、「泥ひばり」だった頃の彼女の様子は誠に見るに堪えられません。


薄汚れた服、こけた頬、やせ細った細い腕……

吐く息が白いのは真冬だからでしょうか。小さい体に抱えられた大きなバケツの中はほぼ空っぽで、それでも生きるためには泥を漁らなければなりません。

寒さをしのぐために、決して身体には良くないであろう工場の排水で暖を取り、街に出ては大人に追いやられ、屋根も壁もない場所で身を縮ませて横になり、そうこうしていくうちに周りでは次々と「泥ひばり」が死んでいきます。

それ以外の世界など知る由もない、明日さえ分からぬ生活が続く中で自然と瞳は濁っていき、そうして死んでいくのだろうという諦めが当然という極限の中で、なんとエミリコは生きていたのです。

当時のことを指して、エミリコは「シャドーハウスの洗脳と同じで」「疑問はなかったんです」と語ります。これが師匠、そしてショーン達と出会う前のエミリコの生い立ちでした。


この話を聞いてショーンは泣いていますが、この話を聞いて泣かない者などいるでしょうか!?いやいません!!

第209話が公開されてからというもの、私は泥ひばり時代のエミリコのことが棘のように刺さって今でも頭の中をぐるぐると回っています。

大人に追いやられるシーンの直前、ショーウィンドウに並んだたくさんのパンをどんな気持ちで眺めていたのだろうかとか、サーカスのチラシを見つけた時、幼い心にその小さな紙屑がどんなに眩しく見えたのだろうかと考えるたびに今でも泣きそうになります。というより涙をこらえるので精一杯です。

今秋葉原でブログ書いていますが、イルミネーションの脇でぬいぐるみを抱えながらほほ笑む女の子を見ながら、そんなささやかな幸せさえエミリコにはなかったのだと思い今にも泣きそうになってしまいました。

エミリコには、よくぞ、よくぞそこまで過酷な境遇を生きていてくれたのだという感謝しかありません。そしてそんな過去に囚われず、エミリコには笑顔でいて欲しいという気持ちしか湧いてきません。

本当それ以外の感情はないです。200を超すエピソードを読んできた方々には共感いただけるでしょう。私はそう信じております。


しかしここで非常にもどかしいのが、エミリコがそうは思っていないことです。もどかしいというか大問題ですね。

なぜならエミリコは「ここを離れた方がいいのかも」と思い詰めているからです。

ここでのショーンは少しだけジョンっぽいです。正確に言うならミラーサイド時代のショーンと表現すべきでしょうか。いずれにせよ必死でエミリコをなだめ慰め励ましています。エミリコと関わった者なら当然するであろう反応を、読者が感じたであろう感想を彼が代表して言ってくれました。流石そつがないショーンです。


けれども、不幸なのが当のエミリコもシャドーハウス以前の状態に戻りつつあることです。

元々自分は所詮貧しい身分であり、今みんなと仲間でいることにエミリコは引け目を感じているということが、彼女の台詞からありありと伝わってきます。

エミリコとショーン、本来の自分たちの姿がここで同時に表現されるという描写に、ソウマトウ先生の構成の巧みさが見えますね。そしてそれが故に、過去だったはずのエミリコが今現在のエミリコに、これまで「生き人形」として描かれてきたエミリコの姿が「過去」になってしまったという事実が悲しいです。これまで積み重ねてきたエミリコの素晴らしさをエミリコ自身がそう受け止めていないのが残念で仕方ありません。


しかし、エミリコがそう思うのも無理はないとも思います。

賛同いただけるかは分かりませんが、自己肯定感が低いと今回のエミリコのような思考になるのはあり得るからです。

エミリコについて、自己肯定感が低いのに前向きで周りの幸せを願うポジティブな少女なのはなぜなのか、という感想がSNS等で散見されましたが、これは自己肯定感の低さが当人にはどう見えているのかと視点を変えれば分かりやすいです。


自己肯定感が低い = 周囲の人間はみな自分より上で素晴らしい


これです。

こう心から思っているのであれば、他者の幸せを心から願うことができますし、自分のことなど差し置いて相手を思いやることもできますし、素晴らしい人たちなのだからそんな人たちの行動や言動には良いところがあるし、(自分以外の)未来や明日は明るいに決まっている(だってみんな自分より上なのだから)

そういう考え方になるんですよね。意地悪な考えだと、捻くれ過ぎだと思われることは承知ですが、自己肯定感が低いとこういう側面もまたあるのです。

加えて、エミリコはシャドーハウスを出て行った方がいい理由について「サーカスをクビになったのが何よりの証拠」と言っています。

師匠が逃亡した後に公演で失敗したあの出来事はエミリコの中でかなり大きな傷となっているようです。

これも深く考えると、結局自分は師匠の代わりになれなかった、危うくサーカス団を窮地に追いやるところだったという恐怖心から出た言葉でしょう。

これを今現在のエミリコの立場に当てはめると、今後ケイトが大人たちと戦っていく中で自分が足手まといにならないか、サーカスの時は団長が誤魔化してくれたがこれからはそうはいかないかも知れない、だって自分(エミリコ)はみんなと違って「泥ひばり」だから……

といったところでしょう。

それらを踏まえてエミリコの「私は恵んでもらってばっかり」という台詞、そして「何もお返しできるものがありません」という台詞を読むと、エミリコの根底にある自己肯定感の低さの根深さがかなり深刻なのが伺えます。

ショーンの「みんなとの絆があるだろ!」(今話)、ケイトの「エミリコのおかげなの」(第115話)といった言葉さえもエミリコの心に響かないのだとしたら、一体どうすればエミリコが皆に与えてくれたものが届くのかと頭を抱えるばかりです。エミリコがこどもたちの棟に与えてきたものが大きすぎるだけに、どうしたらエミリコの空っぽな心を埋めてあげられるのかもう分りません。


しかしこうなってしまったからには、エミリコ自身に変わって貰うよりないのかも知れません。

もちろん、今までのエミリコがよくないから変わって欲しいというわけではありません。例えば第82話でエミリコは、班長として班員を守ろうとバービーの問いかけに対して「もう仲間を失うのは絶対に嫌です」と言っていました。

あのシーンのエミリコは実に頼もしく、その瞳には炎が宿っているのではないかと思うくらいに熱く、力強い意志が宿っていました。
あの時のエミリコの背には班員の命運が託され、泥ひばりだなんてとんでもない、どこまでも羽ばたいていける大きな翼があったはずです。少なくとも私にはそう見えました。たとえ自己肯定感の低さが起因だとしても、自分の身などものともしないエミリコの強き精神を変える必要はありません。それもまた彼女の一部なのですから。


ただ、過去は過去、今は今といういい意味での諦めもあっていいと思うのです。

ここで第151話のラストを振り返ってみましょう。


「戻れない過去の幻影に囚われるのはもうやめよう みんなが受け入れてくれるなら 今の自分も悪くないのかもしれない」


この台詞はバービーのモノローグです。その視線の先には笑顔で手を振るエミリコがいました。

第96話でショーンは「エミリコは自然に人の心動かせる…!」と心の中でエミリコに話掛けていましたが(今思うと声に出して欲しかった…)、それをほんの少しだけ自身の心に向け、それこそあの時のバービーのように少しだけ考え方を変えてくれれば良いのです。たったそれだけでもいいと言えるくらい、余りある功績がエミリコにはあるのですから。


ところでいきなり話変わりますが、バービーもエミリコ並みの運動神経ですが彼女も昔泥ひばりだったとかありえそうですね。

もしそうだったら、バービーがエミリコのおかげで過去を乗り越えたように、エミリコの心を軽くするのはバービーだったらいいなあと夢想してます。(妄想)(すみません本当に余談でした)


最後に、恐らく作中で最もエミリコから影響を受けているであろうこの二人の台詞を紹介して記事を終えたいと思います。


「貴族でも何でもない自分を恥じた」「大事なものは生まれでも立場でもない」「この精神こそが俺の存在理由だ」(第161話・パトリック)

「過去に囚われる必要はない」「自分が何者かを決めるのは今の私」(第115話・ケイト)


筆舌に尽くしがたい現実を目の当たりにしてきたエミリコが、これらの言葉を受け入れるのは多くの時間がかかることでしょう。

しかし、もっとも多くのものを与えた少女が救われないなどということがあって良いはずがありません。ましてや、泥の中の紙切れから光を見出したエミリコが、煤煙で覆われた館の中で皆に与えた光を見出すことができないことなどあってはなりません。


いつの日にか、第80話の時のようにケイトと同じ目線で二人が笑いあえる日が来るよう願っています。 これからもこれまでも、ずっと二人は一緒です!!