今、私が読んでいる漫画が“シャドーハウス”であることをすっかり忘れておりました。

一体何を言い出すんだと思われるかも知れませんが、今回のエピソードを読み終えて最初に出てきた感想はこれしかありませんでした。

もちろん、当然すぎることを申し上げれば、毎週木曜日に私が読んでいる漫画はシャドーハウスで間違いありません。この作品に惹かれたことで、今もこうしてブログを書き続けています。


そんなシャドーハウスの魅力は様々です。

親しみやすい絵柄や美しい背景、緻密なストーリーや考察したくなる伏線、驚くような設定や構成……。

これらが絶妙のバランスで描かれていることで、シャドーハウスは“類似作品不在”というキャッチコピーを不動のものとしています。これはソウマトウ先生の類まれな技術による結晶です。疑いなく、令和時代が終わっても語り継がれるであろう傑作でしょう。

特に、個性的なキャラクターが織り成すドラマは見ごたえ十分です。彼ら彼女らは単独でも魅力たっぷりですが、キャラクター同士の掛け合いや主従関係はシャドーハウスの物語をより奥深いものにしています。

第60話の研究班や第66話のパトリックとエミリコのエピソードは人気がありますし、本ブログの訪問者が増加したのは第22話で同期組が登場してからでした。

直近の第124話~127話では、ジョンやスザンナ、ルイーズやベン、ケイト班の面々が微笑ましいやり取りをしています。

そんなキャラクターの関係性もシャドーハウスの強みなのです。


しかし、油断していました。

ここまで述べたシャドーハウスの魅力は作品の側面でしかなく、本質を語るには不十分だからです。

第44話のあらすじ紹介でも取り上げましたが、ソウマトウ先生がどんな思いで作品を執筆しているかを改めてご紹介します。


“ ゴーリーの「人生におけるわたしの使命は人をできるだけ不安にさせることなんですよ。 人はみんなできるだけ不安になるべきだと思うんです。世界というのは不安なものだから。」という格言に共感しすぎているので今後も私たちはそんな作品作りをしていくだろうと思います。 ”
(令和元年10月8日のツイートより)

エドワード・ゴーリーは、絵本の世界にナンセンスかつ不条理な描写を持ち込み、現代でも多くの人々を魅了しています。彼の芸術性の高いイラストを見ていますと、世界は美しいだけではなく、むしろ美しさは残酷さを内包しているということをまざまざと感じさせられます。


それはシャドーハウスも同じでした。

“顔”の美しさが重視されるこの館でも、その裏では残酷さと不条理が慄然と存在しています。
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結論から申し上げますが、第128話を読んで私の認識が甘すぎたことを痛感しました。サラがケイトの仲間になる日も近いという期待は、幻想でしかなかったからです。

前半は「無能力者狩り」がダグラス班の自作自演だったり、トマスとサラの会話が判明したりと重要なシーンが続きましたが、そんなことさえ些事と思える後半の描写は「戦慄」の一言です。

直近4話の和やかな雰囲気を吹き飛ばす展開を見て、思わず「これがシャドーハウス…」と第113話のケイトと同じ反応をしてしまいました。


特に、サラがケイトへ信頼を寄せている明るい描写から一転、すすに侵された瞳のミアが現れたシーンは、まさに光と影の物語・シャドーハウスの真骨頂でしょう。

せっかくいいところまで来ていたのに「シャドーハウスは間違っている」という禁句を漏らしてしまったサラを見て、本当に救いがないなあと感じました。


ただ、救いがないと書きましたが実はそんなことはありません。何せサブタイトルは「救いの手(2)」です。ソウマトウ先生は今話と127話を一緒に読むことを推奨していましたが、ちゃんと伏線は回収されました。

それはサラの従者・ミアが差し伸べた手です。

しかし、その差し伸べた手にあったのは躾用の棒でした。第21話でミアが「成長の機会を与えて下さい」と言って差し出していた棒です。

あの時サラは、星つきになるという渇望をミアへの暴行という形でぶつけていました。

このエピソードまではエミリコとミアが揃うたびに楽しそうなシーンばかりでしたので、第21話で二人が涙を見せていたのは本当に辛い場面でした。今見返してみても鬱屈とした気分になります。

ですが、当時のエミリコが「ケイト様のことを何も知らない」と呟いた台詞の真相が最近明かされた直後に、此度サラとミアの本当の関係が暴露されるとは驚きました。



“ミアこそが、サラを導いていた”


これがサラとミアの真の姿だったからです。


生き人形の意識がシャドーに影響を与えることはこれまでも度々描写されてきましたが、ここまでおぞましい光景を見ることになろうとは予想外です。

かつて、ジョンがシャドーハウスに対する疑問を吐いた時にショーンも表情が豹変していましたが、本エピソードのミアはそれ以上の恐ろしい表情でサラに詰め寄ります。

サラに対して自身への暴行を誘導するミアを見て、第21話のシーンさえもが真実を写していなかったことに愕然としてしまいました。

今更ながら、シャドーハウスという作品の底知れなさに混乱しています。


しかも極め付きは、恍惚とするミアの姿です。

腕が痺れて膝をつくサラに対し、念を押すように這い上がろうと声を掛けるミア。はっきりと明示されていませんが、想像力を働かせればこの場面は、跪いたサラにミアが手を差し伸べている光景にほかなりません。

サラにとっての救いの手。

それはミアだったのです。


思えば前回ケイトがサラに「必ず守るから」と語り掛けた時、ケイトは肩に手を触れただけでした。

第89話でエドワードに出し抜かれていたように、またしてもケイトはサラを救い出すことができなかったのです。

第127話の扉絵でサラがケイトの手に触れていなかったのは、この第128話の伏線だったとは何人が想像できたでしょうか?

そして、その視線の先にはケイトではなくミアがいたとはだれが想像しえたでしょうか?

60年以上に及ぶシャドーハウスの歴史の中で、どれだけのシャドーがサラと同じような恐怖を味わったのかと想像するだけで背筋が凍るばかりです。

その上、第113話でエミリコが似たような反応を示した後、第114話ではケイトがエミリコを「貴女は貴女という個なんだから」と「エミリコ」という名を授けたことで救いの物語となっていました。

しかし生き人形の名を「ミア」と名付けたサラにそんな幸せな物語が訪れることはまずないでしょう。(「エミリコ」という名前)

その事実がサラの不憫さをより引き立ててしまっています。


ですが、今回もっと注意しなければならないのはラストのミアの瞳です。

第44話のエミリコと違い、ここで描かれたミアは澄んだ瞳をしています。

これが何を意味するのかは慎重に考えるべきでしょう。ましてや、ジョンとショーンではないのですから、これを以ってミアが洗脳から解除されたなどと考えるのは浅慮です。


「壊れちゃったのよ」


第53話でミアは、班数が少なくなったことを疑問に思うエミリコにこんな台詞を言っていました。

それがもし、ミア自身に投げかけられていた言葉だとしたら、これほど辛いことはありません。