中学生の頃、某個別学習塾で英語を習っていたのですが、その時の先生からこんな小話を聞いたことがあります。
「日本語の“夢”には、眠るときに見るものと将来の願望という二つの意味があるけれど、英語の“Dream”もそうだよね。偶然にしては面白いと思う」
それを聞いて、当時の私も不思議だなと思いました。
日本語では一つの単語で表現される物事が英語では複数の表現があったり、逆に英語では一つの単語で表現される物事が日本語では一つの単語で済むこともあります。
ところが「夢」「Dream」は、日本語も英語も複数の意味がある上に、それが一致しているのですから興味深いものです。
嘘か本当かは分かりませんが、日本語の「夢」には睡眠中に見るものという意味合いしかなかったものの、明治時代に英語が流入した際、「Dream」という単語に「夢」という日本語を当てはめた結果、日本語の「夢」にも英語と同じ意味が付加されたという説もあるらしいです。
しかしながら、その概念が今でも引き継がれているということは、当時の日本人が「夢」=「Dream」を違和感なく受け入れたからにほかならないでしょう。
「夢」「Dream」という言葉に限って言えば、洋の東西を問わず似たイメージを想起させる何かがあるのかも知れませんね。
(この記事書いている今しがたトランプ大統領が議会演説してますが「アメリカンドリーム」言ってますなあ。本当に21世紀か。)
さて、今回のサブタイトルは「スージーの夢」です。
第213話の冒頭は、彼女が見ていた幻覚から始まりました。この「幻覚」とは睡眠時に見る「夢」のことです。
しかし本話を読み進めていくと、サブタイトルにある「夢」とは、もしかしたらスージーが長らく胸の中に秘めていた「願い」でもあったのではないかなと感じました。
「日本語の“夢”には、眠るときに見るものと将来の願望という二つの意味があるけれど、英語の“Dream”もそうだよね。偶然にしては面白いと思う」
それを聞いて、当時の私も不思議だなと思いました。
日本語では一つの単語で表現される物事が英語では複数の表現があったり、逆に英語では一つの単語で表現される物事が日本語では一つの単語で済むこともあります。
ところが「夢」「Dream」は、日本語も英語も複数の意味がある上に、それが一致しているのですから興味深いものです。
嘘か本当かは分かりませんが、日本語の「夢」には睡眠中に見るものという意味合いしかなかったものの、明治時代に英語が流入した際、「Dream」という単語に「夢」という日本語を当てはめた結果、日本語の「夢」にも英語と同じ意味が付加されたという説もあるらしいです。
しかしながら、その概念が今でも引き継がれているということは、当時の日本人が「夢」=「Dream」を違和感なく受け入れたからにほかならないでしょう。
「夢」「Dream」という言葉に限って言えば、洋の東西を問わず似たイメージを想起させる何かがあるのかも知れませんね。
(この記事書いている今しがたトランプ大統領が議会演説してますが「アメリカンドリーム」言ってますなあ。本当に21世紀か。)
さて、今回のサブタイトルは「スージーの夢」です。
第213話の冒頭は、彼女が見ていた幻覚から始まりました。この「幻覚」とは睡眠時に見る「夢」のことです。
しかし本話を読み進めていくと、サブタイトルにある「夢」とは、もしかしたらスージーが長らく胸の中に秘めていた「願い」でもあったのではないかなと感じました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先ほども書きましたが、今回のお話はスージーの「夢」から始まりました。
その夢では幼い女の子が、弟が産まれたことに喜んでいる様子が描かれています。
それを報告している相手がガチョウというのもなんだか微笑ましいですね。ガチョウの足元にはヒナが3羽いますので、このガチョウは母ガチョウなのでしょう。女の子が子育てをしているガチョウに親近感を覚え、自らに弟ができる喜びを伝えたと考えると、なんとも御伽噺のような平和なシーンです。
余談ではありますが、ガチョウは英語で「goose」といい、「マザー・グース」に代表されるようにイギリスでは文化に深く関わる家禽です。
今回冒頭の描写から読み取ることはできませんが、もしかしたらソウマトウ先生にとって何らかの意図を含んだシーンかも知れません。(取材旅行で見かけた地方の民家の描写を取り入れただけかも知れませんが)
さて、そんな愛くるしい少女の正体はと言いますと、お分かりの通りスージーです。
次ページにてパチリと目を覚ましています。
このシーンだけ見ると、第80話のエミリコと繋がる描写に見えますね。
確かあの時エミリコは、窓辺にいたコマドリに手を伸ばしたものの、すぐに彼方に飛び去って行ってしまいました。
過去記事の「第80話 日常」ではそれについて「しかしその手は僅かに届かず、自由の象徴は陽光へと消えていきました」と書きましたが、それを踏まえるとガチョウをがっしりと抱きしめているスージーは対照的ともいえるでしょうか。
弟ができたと喜ぶ幼いスージーには、きっと弟も含めて、一家が仲良く暮らしていくという将来を思い描いていたことは想像に難しくありません。それはまさしく、英語で言うところの「Dream」です。
当時のスージーにとって、その「夢」は目の前にある揺るぎないものとして信じ切っていたことでしょう。むしろ、そうならない理由はなかったといってもいいくらいです。
しかし、そうはならなかったことはこれまでのストーリーを通じて明らかです。
既にスージーはこのシャドーハウスに身を置いているからです。
ということは、10代前半に「選別会」に参加し、その中から選ばれ、親元を離れてシャドーハウスへと身を移し、そして珈琲の洗脳によって「生き人形」にされてしまったというのが、現在のスージーです。
しかも、あれだけ産まれたのが嬉しかった弟のことも忘れさせられてしまっています。
その件については第125話で伏線が描かれていました。
ショーンがスージーに「お姉ちゃん」と語りかけたエピソードです。
あの時ショーンは、スージーの面倒見のいい性格を見て年の離れた弟や妹がいると推測していましたが、まさにその通りだったようです。あの時のスージーの涙は、ショーンの推理が当たっていたことを裏付けていました。
ところが、ショーンの推理は的中ではなかったようです。点数にしたら70点くらい、おおむね合格ラインを超えたところでしょうか。
今回の第213話ではスージーの少女時代が描かれていましたが、まさか両親の都合で弟と引き離されていたとは思ってもみませんでした。流石のショーンもそこまでは想像できなかったわけですが、そんな複雑な家庭事情なんか推理しようとしてもできるものではありません。
ようやくあの時のスージーの涙は、弟や妹のことを思い出したからではなく、幼い日に引き裂かれた弟への想いからくる涙だったのかと合点がいきました。私もこんな奥深い理由があるとは全然想像できませんでした。
ところで、ショーンの推理が的中しなかったと書きましたが、どうやら私の考察も的中ではなかったようです。
今話でもっとも印象に残ったシーンといえば、ラストでスージーの弟の名前が「ジョン」だと明かされた場面かと思いますが、その件について過去にこんな記事を書いたからです。
「「スージー・ショーン姉弟説」はかなり可能性の低い説だと私は考えます」(→「ショーンとリッキーが仲悪い理由」より)
この記事の内容については第211話のリッキーの台詞で明らかになりました。ショーンについて「俺の姉さんたちにも気に入られる始末」と語っていたからです。第125話のショーンの「お姉ちゃん」発言が板についていたのは当然だったというわけです。それでもうお終いかと思っておりました。
しかし、SNSやヤンジャンアプリのコメント欄で度々「スージー・ショーン姉弟説」が囁かれていたのも事実です。
確かにショーンとスージーは髪型や目の形が似ています。言われてみるとそんな気がするのも事実です。
こう考察される方は10名は下らなかったと思います。
それがまさかまさかの、「スージーには幼い頃に生き別れた弟がいた」という事実が判明したのですから驚きました。
いや、その事実に驚いたというよりも、ソウマトウ先生の脚本のテクニックに驚いたといった方が正確かも知れませんね。
これまで私も含めて読者は、
スージーに弟がいたかもしれない→ショーンの「お姉ちゃん」に反応したということは二人は姉弟かも→しかしスージーはともかくとして、過去を思い出したショーンがスージーのことを思い出していないのはどういうことだ→しかし二人の容姿は似ている
という一種の矛盾を孕んだ事実が本編から提供されていたわけですが、それを
「スージーには幼い頃に生き別れた弟がいた」という、上記の事実に矛盾を生じさせない設定を描いたソウマトウ先生には全く恐れ入ります。
ソウマトウ先生はシャドーハウスの構成について小説を参考にしたと仰っていましたが、ひょっとしたらスージーとショーンの描写についても、ミステリー小説や推理小説の構成を参考にされたのかも知れません。
漫画で「叙述トリック」ともいえる芸当をやってのけるとは流石ソウマトウ先生です。まんまと手の裏で転がされてしまいました。(これがあるからシャドーハウスは楽しい)
もっとも、スージーの弟の名が「ジョン」だったからといって、生き別れた弟がショーンだったとは限りません。「ジョン」という名の少年が他にいてもおかしくないからです。
例を挙げるなら、ルイスとルイーズの生き人形がどちらも「ルウ」だったことがあります。すす島の人口がどのくらいなのかは不明ですが、同姓同名の人物がいてもおかしくない広さなのは確かです。
果たして、スージーが再会を願う弟がショーンなのか、それとも別人なのかまだ分かりません。
しかし、それでも第215話でショーンがスージーの心を動かしたのは紛れもない事実です。
シャドーハウス内において血縁関係が明示されているのはケイトとアンソニー、過去にはベルとベルがいたくらいでしょうか。
前者はイレギュラー、後者は双子と、ほぼ例外といえるキャラクターしかおりません。
そうした中でもしもスージーとショーンが姉弟だとしたら、シャドーハウスという館が繋いだ奇妙な出会いといえそうです。
そうした今後の展開に大きく関わってきそうな二人の関係ですが、それによってキャラクター同士の関係性がどう変わっていくのか注意深く見ていきたいと思います。
先ほども書きましたが、今回のお話はスージーの「夢」から始まりました。
その夢では幼い女の子が、弟が産まれたことに喜んでいる様子が描かれています。
それを報告している相手がガチョウというのもなんだか微笑ましいですね。ガチョウの足元にはヒナが3羽いますので、このガチョウは母ガチョウなのでしょう。女の子が子育てをしているガチョウに親近感を覚え、自らに弟ができる喜びを伝えたと考えると、なんとも御伽噺のような平和なシーンです。
余談ではありますが、ガチョウは英語で「goose」といい、「マザー・グース」に代表されるようにイギリスでは文化に深く関わる家禽です。
今回冒頭の描写から読み取ることはできませんが、もしかしたらソウマトウ先生にとって何らかの意図を含んだシーンかも知れません。(取材旅行で見かけた地方の民家の描写を取り入れただけかも知れませんが)
さて、そんな愛くるしい少女の正体はと言いますと、お分かりの通りスージーです。
次ページにてパチリと目を覚ましています。
このシーンだけ見ると、第80話のエミリコと繋がる描写に見えますね。
確かあの時エミリコは、窓辺にいたコマドリに手を伸ばしたものの、すぐに彼方に飛び去って行ってしまいました。
過去記事の「第80話 日常」ではそれについて「しかしその手は僅かに届かず、自由の象徴は陽光へと消えていきました」と書きましたが、それを踏まえるとガチョウをがっしりと抱きしめているスージーは対照的ともいえるでしょうか。
弟ができたと喜ぶ幼いスージーには、きっと弟も含めて、一家が仲良く暮らしていくという将来を思い描いていたことは想像に難しくありません。それはまさしく、英語で言うところの「Dream」です。
当時のスージーにとって、その「夢」は目の前にある揺るぎないものとして信じ切っていたことでしょう。むしろ、そうならない理由はなかったといってもいいくらいです。
しかし、そうはならなかったことはこれまでのストーリーを通じて明らかです。
既にスージーはこのシャドーハウスに身を置いているからです。
ということは、10代前半に「選別会」に参加し、その中から選ばれ、親元を離れてシャドーハウスへと身を移し、そして珈琲の洗脳によって「生き人形」にされてしまったというのが、現在のスージーです。
しかも、あれだけ産まれたのが嬉しかった弟のことも忘れさせられてしまっています。
その件については第125話で伏線が描かれていました。
ショーンがスージーに「お姉ちゃん」と語りかけたエピソードです。
あの時ショーンは、スージーの面倒見のいい性格を見て年の離れた弟や妹がいると推測していましたが、まさにその通りだったようです。あの時のスージーの涙は、ショーンの推理が当たっていたことを裏付けていました。
ところが、ショーンの推理は的中ではなかったようです。点数にしたら70点くらい、おおむね合格ラインを超えたところでしょうか。
今回の第213話ではスージーの少女時代が描かれていましたが、まさか両親の都合で弟と引き離されていたとは思ってもみませんでした。流石のショーンもそこまでは想像できなかったわけですが、そんな複雑な家庭事情なんか推理しようとしてもできるものではありません。
ようやくあの時のスージーの涙は、弟や妹のことを思い出したからではなく、幼い日に引き裂かれた弟への想いからくる涙だったのかと合点がいきました。私もこんな奥深い理由があるとは全然想像できませんでした。
ところで、ショーンの推理が的中しなかったと書きましたが、どうやら私の考察も的中ではなかったようです。
今話でもっとも印象に残ったシーンといえば、ラストでスージーの弟の名前が「ジョン」だと明かされた場面かと思いますが、その件について過去にこんな記事を書いたからです。
「「スージー・ショーン姉弟説」はかなり可能性の低い説だと私は考えます」(→「ショーンとリッキーが仲悪い理由」より)
この記事の内容については第211話のリッキーの台詞で明らかになりました。ショーンについて「俺の姉さんたちにも気に入られる始末」と語っていたからです。第125話のショーンの「お姉ちゃん」発言が板についていたのは当然だったというわけです。それでもうお終いかと思っておりました。
しかし、SNSやヤンジャンアプリのコメント欄で度々「スージー・ショーン姉弟説」が囁かれていたのも事実です。
確かにショーンとスージーは髪型や目の形が似ています。言われてみるとそんな気がするのも事実です。
こう考察される方は10名は下らなかったと思います。
それがまさかまさかの、「スージーには幼い頃に生き別れた弟がいた」という事実が判明したのですから驚きました。
いや、その事実に驚いたというよりも、ソウマトウ先生の脚本のテクニックに驚いたといった方が正確かも知れませんね。
これまで私も含めて読者は、
スージーに弟がいたかもしれない→ショーンの「お姉ちゃん」に反応したということは二人は姉弟かも→しかしスージーはともかくとして、過去を思い出したショーンがスージーのことを思い出していないのはどういうことだ→しかし二人の容姿は似ている
という一種の矛盾を孕んだ事実が本編から提供されていたわけですが、それを
「スージーには幼い頃に生き別れた弟がいた」という、上記の事実に矛盾を生じさせない設定を描いたソウマトウ先生には全く恐れ入ります。
ソウマトウ先生はシャドーハウスの構成について小説を参考にしたと仰っていましたが、ひょっとしたらスージーとショーンの描写についても、ミステリー小説や推理小説の構成を参考にされたのかも知れません。
漫画で「叙述トリック」ともいえる芸当をやってのけるとは流石ソウマトウ先生です。まんまと手の裏で転がされてしまいました。(これがあるからシャドーハウスは楽しい)
もっとも、スージーの弟の名が「ジョン」だったからといって、生き別れた弟がショーンだったとは限りません。「ジョン」という名の少年が他にいてもおかしくないからです。
例を挙げるなら、ルイスとルイーズの生き人形がどちらも「ルウ」だったことがあります。すす島の人口がどのくらいなのかは不明ですが、同姓同名の人物がいてもおかしくない広さなのは確かです。
果たして、スージーが再会を願う弟がショーンなのか、それとも別人なのかまだ分かりません。
しかし、それでも第215話でショーンがスージーの心を動かしたのは紛れもない事実です。
シャドーハウス内において血縁関係が明示されているのはケイトとアンソニー、過去にはベルとベルがいたくらいでしょうか。
前者はイレギュラー、後者は双子と、ほぼ例外といえるキャラクターしかおりません。
そうした中でもしもスージーとショーンが姉弟だとしたら、シャドーハウスという館が繋いだ奇妙な出会いといえそうです。
そうした今後の展開に大きく関わってきそうな二人の関係ですが、それによってキャラクター同士の関係性がどう変わっていくのか注意深く見ていきたいと思います。
